仕事で疲れて帰ってきたとき、温かい食事を用意して待っていてくれる人がいなくても、コンビニさえあれば少なくとも不自由は感じません。私が思うに、それは最強のひきこもりツールです。
「なんとなく」のつながりを簡単に作れるネットにしても、同じことです。ネットさえあれば、映画も観られるし、ゲームもできる。その気になれば新聞やニュースも社会とつながっている感じすら得られます。
「偽りの自己」しか持てない人たち
幸いなことに、現代社会には孤独を忘れさせてくれる装置がたくさん用意されています。これらのツールは、巧妙に孤独を覆い隠す働きをしているのです。
こうした社会のなかで「みんなと同じ」でいるということには、じつは多大なリスクがあります。
たとえば、表面的につき合ったり、わいわい騒いだりするのは上手だけど、本音を語り合うような深いつき合いは苦手、という人。みなさんのなかにも、そう自覚している人がたくさんいるかもしれませんね。
慶應大学教授だった小此木啓吾先生は、いまから約40年以上前、こういうつき合い方のことを「同調型ひきこもり」と呼びました。
みんなの前では明るく振る舞い、いい人でいるけれど、自分の心のなかのドロドロした部分や不安な部分を人に打ち明けることはできない。人と情を通い合わせることができないので、それは結局、ひきこもりと同じだというわけです。
もちろん、誰かれ構わず本音でいようとするのは、それはそれで問題です。私だってずいぶん好き勝手にものを言っているように見えるかもしれませんが、その場その場でいろんな顔を使い分けてコミュニケーションをとっていますし、求められる役割に応じて本音を隠したり、人に合わせたりしています。
イギリスの精神分析家、ウィニコットは、これを「偽りの自己」と「真の自己」と規定しました。私たちはこの「偽りの自己」を用いて、社会適応をしているのです。ですから、「偽りの自己」そのものはとくに問題ではありません。
問題は、「偽りの自己」しか持てないという場合。自分に自信が持てない「他人本位」な人ほど、「偽りの自己」で強固な仮面を作って、周りに合わせようとしてしまいます。そうして自分の本音を見失ってしまったら、それは孤独を加速させる危険性をはらんでいる。
私たち精神科医は、「社会適応状況がいいほど病理が軽い」という診断を下しがちですが、こう考えてみると、「同調型ひきこもり」の人々よりも、堂々とひきこもれる本当のひきこもりやオタクといった人たちのほうが、むしろ強い自己主張ができていると考えることができます。
彼らにもさまざまな葛藤や悩みがあるでしょう。でも、「同調型ひきこもり」に陥っている人たちも、それと同じかそれ以上に深刻な問題をはらんでいる。
いずれにしても、「みんなと同じ」でいることが、決して世の中を生きやすくしているわけではないということは強く自覚しておくべき問題だと思います。
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