「どこでも同じ」は、アイデンティティを喪失させる
アイデンティティ論の提唱者で、アメリカの精神分析学者であり文化人類学者でもあるエリクソンは、アイデンティティを定義するものとして、次の2つの要素を挙げています。
ひとつは、自分が本当の自分として過去の自分と連続しているという一貫性があること。もうひとつは、他者がそれを同じように見ているという、明確な自信があること。
この2つを満たすものが、アイデンティティだと定義されているわけです。これは、自分が「どこのなにがしです」という意識をはっきり持っていて、外からもそう見られているという確信が必要だ、ということです。
行き過ぎた均質化は、こうした感覚を非常にあいまいなものにして、自分というものを見失わせてしまいます。現代日本社会でも、「自分の物語」が失われ、みんなが同じ「自分がない」という状態になってしまっているわけです。
確固としたアイデンティティがなければ、人は不安になるし、孤独感も増します。しかも、「自分が自分に属していない」という自己所属感がないと、周囲の雰囲気がその人の行動を規定するという現象が起こります。
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すると、人は孤独への「防衛」として、ますます人に合わせようとする。
その場その場の雰囲気に合わせるのはやたらにうまいけれど、自分の感情を持たず、人と接している実感がないという人が多いのは、そのためです。
見たこと、聞いたことのあるシチュエーションになるとほっとするし、よく知っている連中のなかにいると気分もラクだ。その反面、自分を含むコミュニティにしか興味を持てないという状況は、こうして生まれてくるのです。
孤独への防衛が、孤独を加速させる
前述したように、「みんなと同じ」でいたいというのは、孤独に対する防衛心理のひとつです。しかしいっぽうでは、周りに合わせれば合わせるほど、さらに自分を見失ってしまうことにもなります。
周りに合わせている以上、自分から見て「自分がない」という側面と、人から見た「自分がない」という側面の両方が強化されることになり、アイデンティティの喪失がさらに加速するからです。
孤独への防衛として周りに合わせていたのに、そうすることでより孤独になる。ここでは矛盾と悪循環が起きています。均質化文化をもたらした現代社会では、「みんなと同じ」という防衛をすればするほど、孤独を内包してしまうという危険があるのです。
「みんなと同じ」でいれば、一見、孤独から逃れられるような気になりますから、表面的には孤独というものは浮かび上がってきません。均質化文化というのは、孤独というものが巧妙に隠される社会だといえます。
しかも、現代にはコンビニやネットといった孤独を覆い隠す装置まで用意されています。1階にコンビニが入っているマンションに住んでいる知人が、「僕の冷蔵庫はコンビニだ」と笑いながら話していたのを覚えていますが、とにかくコンビニさえあれば、そこそこ美味しいものをいつでも不自由なく食べられる。