「ウエスト・サイド」とはセントラルパークの西側を意味しており、ワシントン・ハイツもこの中に含まれる。つまり『イン・ザ・ハイツ』とは『ウエスト・サイド物語』の街の「その後」を描いた物語なのだ。だから本作は音楽面でも『ウエスト・サイド物語』の音楽性を継承しながら、「その後」に起こった音楽面の変化も反映されている。
『ウエスト・サイド物語』でプエルトリコ系のティーンたちが愛聴していた音楽は、マンボだった。その発祥の地は同じカリブ海の島国キューバである。アメリカで禁酒法が施行された1920年代、フロリダから至近という地の利が手伝って、キューバは歓楽街として栄え、ナイトクラブでダンスミュージックが発展。1930年代にはルンバが、1940年代にはマンボが生まれ、ニューヨークのナイトクラブでも演奏されるようになった。
ミュージシャンの中核を担ったのは勿論キューバ人だったが、スペイン語圏でありながらアメリカの自治領だったためにニューヨークに数多く住んでいた、プエルトリコ系移民も仲間に加わっていた。
ところが1959年に事件が勃発する。キューバで社会主義革命が起こり、アメリカと国交が断絶してしまったのだ。キューバ人の多くは故国に帰ってしまい、取り残されたプエルトリコ系ミュージシャンは、自身のアイデンティティを確立しなければならなくなったのだ。
プエルトリコ系がまず行ったのは、隣町のハーレムで流行していたブルースやドゥーワップと、ラテンリズムを融合させる試みだった。こうして誕生したのがブーガルーと呼ばれるダンスミュージックで、1960年代にヒスパニックカリビアンのコミュニティ内で大流行した。
しかしアフリカ系の間でブラックパンサー党が結成され、自身のルーツを追い求める姿勢が強まっていくと、プエルトリコ系のなかでもヒスパニックカリビアンとしてのアイデンティティを追求する意識が強まっていく。「ハーレム・カルチュラル・フェスティバル」が開催された1969年はこうした端境期にあたり、ブーガルーを演奏しているモンゴ・サンタマリアに対し、レイ・バレットがもっとキューバ寄りの音楽をプレイしているのが興味深い。
キューバ ハバナ市内でサルサを踊る男女(Shutterstock)
こうしたルーツ探究の動きのなかで中心的な役割を担ったのが、ニューヨークで設立されたファニアレコードだった。ファニアの所属アーティストは、キューバ音楽をベースにカリブ海諸国のさまざまな音楽を採り入れて、汎ヒスパニックカリビアン音楽である「サルサ」を創り出したのだ。
サルサはコミュニティの中で爆発的な支持を受け、ファニアレコード所属ミュージシャンの選抜部隊ファニア・オール・スターズは、1973年8月にニューヨーク・ヤンキースの本拠地ヤンキースタジアムでの公演がソールドアウトするほどになった。また中南米各国で精力的にツアーを行ったことで、世界中のスペイン語圏での支持を獲得した。こうした動きにドミニカ産のダンスミュージック、メレンゲも続いた。