筆者は、幾つもの職業を持っているが、その一つは、こうした随想や論考を書く文筆業であり、一つは、様々な場に講師として招かれる講演業である。
そのため、筆者の講演を聴かれた方から、ときおり、話術の極意を訊かれることがある。筆者は、話術のプロフェッショナルとして数十年、修業を続けている道半ばの人間であるが、話術というものの要諦については、一つの明確な考えを持っている。
もとより、それが話術であるかぎり、「いかなる言葉を語るか」「どのように言葉を語るか」ということは大切なことであるが、永年の修業を経て辿り着いた要諦は、実は、「いかに言葉を語らないか」である。すなわち、話をするとき、いかに「間」を取り、「沈黙」の瞬間を持つかということが、語る言葉を引き立たせるための要諦である。
このことは、あるレベルを超えた話術のプロフェッショナルならば、誰もが分かっていることであるが、実は、これは、決して「話術」の世界だけの話ではない。
筆者のもう一つの職業である「文章」の世界においても、同様である。文章を書くとき、巧みな言葉を選び、卓抜なレトリックを駆使することは大切であるが、一流の文筆家ならば、必ず、「行間」や「文末」に深い思いを込めることができる。すなわち、文字の無い部分で、大切なメッセージを伝えることができるのである。それゆえ、昔から「読書」の世界では、「行間を読む」ことや「文末の余韻を味わう」ことの大切さが語られてきた。
そして、このことは、話術や文章という「言葉」の世界だけの話ではない。
それは、「音楽」の世界も同様である。楽器の演奏において、一流の演奏家ならば、良い音を奏でることは当然であり、彼らは、その水準を超え、「無音」の瞬間を、見事に、創造的に使っている。
さらに、「絵画」の世界でも、一流の画家は、巧みな色彩の組合せで対象を表現するが、やはり、最も高度な技術は、色の無い状態、すなわち、「白」の使い方であると言われる。
こう述べてくると、それが話術であれ、文章であれ、音楽であれ、絵画であれ、一流のプロフェッショナルの最高度の技術には、共通するものがあることに気がつく。
すなわち、それらの技術は、いずれも、「間」や「沈黙」、「行間」や「文末」、「無音」や「白」といったもの、東洋思想的に述べるならば、「無」や「空」と呼ぶべきものに、深い意味を持たせているのである。
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