お金という虚構のアート
お金はただの交換証書としてだけでなく、物々交換で同等の物を交換するときの価値の目安としても機能する。交換する物は違う物だろうが、例えば農耕民族と狩猟民族が取引するとき、米などの穀物とウサギや鹿などの獲物を、どれだけの量で交換するのかを決めなくてはならない。そのバランスが担保されないと有限の資源しかない社会は破綻してしまう。
物の値段は重さや体積も目安にはなるが、それをどれだけ必要とするかという両者のニーズが基準となる。金やダイヤモンドが高価なのは希少性が高いからだろうし、レアものと言われる商品も流通量が少ないことによって、同じものが手に入りにくいと値段が上がる。
しかし希少だとしても、それに関心がない人には価値がない。特定のアイドルが好きな人にとっては、そのアイドルのグッズはいくら出しても買いたいものだろうが、知らない人はタダでもいらないと感じるだろう。
こう考えると一瞬、有難がっていたお金が、戦後のハイパーインフレで物の値段だけ上がって紙きれ同然となったり、最近で言えばジンバブエ・ドルのように100兆ドル紙幣が出てきたりして収拾がつかなくなった話を思い出し、お金自体の虚構性が浮き彫りになってくる。
こうしたお金の暗部を暴き出した話として思い出すのは、ジェームズ・ボッグスというアーチストのおかしな活動を追った、1992年に公開された「マネー・マン」というドキュメンタリー映画だ。
ジェームズ・ボッグス(Photo by Greg White/Fairfax Media via Getty Images)
精巧なドル紙幣の絵を自ら描いて、そこに描かれた額をその絵画作品の値段として相手に買ってもらい、レストランの支払いなどに使うという「取引」という活動を行って有名になった人だ(日本でも前衛美術家の赤瀬川原平が、1963年に模造千円札紙幣を発表して警察ともめた話が思い出される)。
単純に見れば、それは偽札という解釈もできるし、実際彼は各国で逮捕されているが裁判で無罪も勝ち取っている。これは絵画なのか、偽札なのか? 絵は片面しか描かれておらず、作者のサイン入りで顔も描かれていることもあり、それを単なる絵画と見るならば、10ドル紙幣の絵がその後に1000ドルの値が付く場合もある。受け取る側がそれを偽札扱いするのか、描かれた金額と同じ値段の絵画と考えるかでまるで違う結果が生じる。
そう考えると、通貨が表象する価値は絶対的なものではなく、通貨自体も無色透明なただの数字が書かれた交換証書でない固有の意味を持つ存在に思えてくる。