経営者として失敗をしたことはないのか。その問いを「失敗したことねぇ」といったん受け止め、しばらく考え、古森重隆代表取締役会長兼CEOは「ないな。大きな失敗はしていない」と、自分に確認するように続けた。CEOに就任してから17年。それが、富士フイルムの“第二の創業”を成し遂げた中興の祖の率直な思いだ。
では、なぜ失敗をせずに済んだのか。
その問いへの答えは早かった。
「ほとんどの場合、真理、真実というのは明らかだから。それに基づいてやっただけの話。僕が勝ったわけじゃない。真実が勝った」
富士フイルムは「お正月を写そう」と呼びかけるCMとグリーンの箱に入った写真用フィルムの会社であり、誰でもどこでも気軽に写真が撮れる『写ルンです』あるいは『チェキ』の会社であり、デジタルカメラ『FinePix』の会社でもある。一方で、ひとたび病院に足を踏み入れれば、レントゲン室や鼻から入れられる内視鏡にそのロゴを見つけられる。オフィスでは、グループ会社である富士ゼロックスの複合機を使っているという人もいるだろう。
富士フイルムは、さまざまな顔をもつ会社だ。2020年には、新型コロナウイルスの感染拡大によって、抗インフルエンザウイルス薬として日本で承認されている『アビガン』のメーカーとしても注目された。
しかし、創業時の富士フイルムは、ひとつのことだけをする会社だった。1934年に、大日本セルロイドがもっていたフィルム事業が分離する形で設立された同社は、映画・写真用フィルムの国内製造という悲願を事業化する宿命を背負っていた。同社の設立前、大日本セルロイドには世界最大の写真用フィルムメーカーだった米コダックから、日本国内での写真用フィルム事業の共同経営をもちかけられていたが、提示された条件はとうてい受け入れられるものではなく、提携には至っていなかった。
以来、富士フイルムは巨人と呼ばれたコダックの背中をはるか遠くから追いかけることになる。創業から5年後の39年には、満州での地図製作などに用いられた特殊フィルムも製品化。現在、会長兼CEOを務める古森はこの年にその満州で生を受けた。
古森が富士フイルムの社長に就任したのは2000年のことだった。
「このとき、写真用カラーフィルムの世界需要は、ピークに達していました。翌01年にはコダックを抜いて、念願だったシェアナンバーワンになっています」
70年近くをかけての大願成就。このとき、カラーフィルムなどいわゆる写真感光材料は、富士フイルムの売り上げの6割、利益の3分の2を占めていた。
当時がピークだったということは、数字はその後、減ることを意味する。それも、猛スピードで。