──なるほど。コミュニケーションの役割を担っていたのですね。台湾の市民社会は、この運動を通じて成長したと思いますか? もしそうであれば、どのように変わったと思いますか?
ひまわり運動以前は、政治は職業政治家のものでした。もしあなたが20歳くらいで、人権や同性婚や、その他の政治的な問題に興味があったら、クラスの中ではちょっと変わった人でした。でも、ひまわり運動の後は、政治的な行動に関心があることはとても「クールなこと」になりました。
例えば、海外メディアに議会占拠に関する意見広告を出すための資金を集めるクラウドファンディングに参加する人たちは、力強さを感じました。はじめて、何万人もの人々が同じ考えを持つことを知り、さらに声をあげるためにお金を投じてもいい、という強い気持ちの人たちの存在を感じることができたからです。そして、約50万人の人々が路上に出て歩いたデモの際には、皆が、当時議論が紛糾していたサービス貿易協定(CSSTA)についてのコンセンサスの形成に、何らかの形で貢献できると感じ、力づけられました。
最終的には、3週間にわたる議会占拠、20もの異なるNGOによって行われた様々な議論のあと、すべての占拠者や参加者の要望に合う要望書がつくられ、立法院長に認められました。占拠は成功しました。単に抵抗しただけではない、多くの人の意見を取り入れることができた、より良い形でのデモでした。
──シビックテック・コミュニティ、及びあなた自身はどうでしたか? 考え方は変わりましたか?
2つのことが変わりました。ひとつめは、占拠以前に私たちが構築したテクノロジーは、せいぜい1万人ほどの人々に向けたものでした。しかし、この時はじめて50万人以上の人々に向けたものになりました。ですので、私たちは自身のことを市民テクノロジストというだけではなく、必要不可欠な「公共エンジニア」と考えることができ、大いに勇気づけられました。
現在、最も成功しているg0vプロジェクトは、1000万以上の人々(※台湾の全人口の約半分)が利用しています。デジタルインフラにおける、高速道路や橋のようなものになったのです。そこで考え方の変化が起こりました。私たちはオープンソース・コミュニティの「提唱者」のようなものでしたが、占拠の後は、「公共エンジニア」に意識が変わりました。これがひとつ目の変化です。
ふたつ目は、2014年の後半には、多くの政治家や公務員が、私たちがどのようにして、数百、数千、50万以上の人々の話を聞き、スケールし、分断された問題を一つのフィーリングにもっていくことができたのか、本気で学びたがっていました。
そのこともあり、私は2014年に政府のリバース・メンター(台湾政府の12の省では、策定している社会イノベーション行動計画に基づいて、それぞれ2人のリバース・メンターを採用する。多くは35歳以下の社会起業家やイノベーター)として採用されました。以前はストリートにいましたが、今は占拠していた建物の中にいます。
──あなたは、議会占拠のニュースを聞いたとき、シリコンバレーで働いていたんですか?
どういう意味かによります。フィジカルにはずっと台湾にいました。少しややこしいのが、テレプレゼンスで、遠隔でシリコンバレーの会社やチームと働いていたからです。ですので、私は議会に入る前に「2~3週間休まなければならない」と同僚に伝えました。彼らは、機器を設営するための手助けもしてくれました。ですが、肉体的には台湾にいました。