「ええっ、こんなに眼が動かないなんて!」
2015年の12月、ロンドンオリンピック金メダリストの村田諒太選手の眼の動きを始めてチェックしたとき、私は驚きを隠せませんでした。
これほど素晴らしい実績を持つ選手が、眼を十分に使えていないなんて…。
ロンドンオリンピックにおいて日本人初のボクシング・ミドル級金メダリストとなった村田諒太選手は、その後、オプトメトリー・ドクターの北出を訪ねていた。
同じく現役時代に眼のトレーニングに通っていた飯田覚士選手(元WBA世界スーパーフライ級チャンピオン)から北出のビジョントレーニングを勧められてのことだ。
具体的にいえば、眼を動かしているときに眉間にシワが寄ったり、また、眼ではなく顔を動かしてものを見ていたりしていたのです。ボクシングの選手で眼が動きにくいということは、視野が狭くなり、試合のときに大きなハンデにもなります。
驚いたと同時に、私は内心、村田選手に対して期待が高まり、ワクワクしました。
「こんなに眼が動かない状態で金メダルが取れたということは、眼のトレーニングをしたら、どれほど素晴らしい選手になるだろう」
最も速かったとされるフィリップ・ジョーンズ選手(1988年。現在はすでに超えられている)の計測されたパンチスピードが時速50km。これを分かりやすく時速36kmに置き換えて換算すると、秒速10mとなる。これをさらに、ジャブが届く腕の長さを0.8mとして計算すると、繰り出されたパンチが顔面を捉えるのに要する時間は0.08秒。
人間が瞬きする間を「一瞬」とするならば、それはおよそ0.36秒。瞬きする間に、4発も5発も顔面にヒットさせられることになる。
そんなボクサーにとって、本来眼で捕らえられる動きを、顔を動かすことで補っていたとすれば、これに要するコンマ数秒の遅延は致命的だ。
かつて「ボールが止まって見えた」とコメントしたホームランバッターがいた。その後このコメントは、この選手を語る上での天才が故とする逸話として、また天然が故とするエピソードの一つとしてさまざまなメディアを通して語られ続けている。しかし、ボクサーのパンチスピードや、ピッチャーの投げるボールに対してスウィングするバットスピードなど、「瞬時」とか「刹那」の時間間隔で戦う者が有する時間感覚ならば、そういう言葉でこそ表現できるのかもしれない。
その後、村田選手は毎日熱心に眼のトレーニングを続けました。私から見てもみるみる眼の動きが改善され、本人も、トレーニングを始めてから視野も広がり、相手のパンチが見やすく、ゆっくりに感じられるようになったといいます。
2019年12月23日に行われたスティーブン・バトラー選手との防衛戦にも見事完勝。
その落ち着いた戦いぶりは、相手のパンチがしっかり見えていたのだろうと思わせるに十分なものだった。
それはボクシングに限ったことではなく、「飛んでくるボールをうまく捕れない」という状況も同じく言えることではないだろうか。
遠くのボールを眼で捕らえることは、視力が良ければ問題なくできることである。ただしここから、飛んで(移動して)くるボールの軌跡をイメージし、到達地点を瞬時に計測して、さらに四肢にそれらの情報を正しく伝える。
これらの複雑な視覚情報を伝達することこそが、アスリートに求められる能力だ。