例えば、「死に至ることもある鉄道施設での歩きスマホをやめよう」といった深刻な話題であれば、それに相応しい表現がまず脳裏に浮かぶ。悲しい情景をビジュアルで描いたり、「近親者が悲しむぞ」という気持ちを揺さぶるコピーを開発したり、そういった意味での「共感」を得ることをめざすのが普通であった。
しかし、いまや、多くの場合、まずは「楽しませる」ことから始めるのが、スタンダードとなっている。「伝えたいことを伝える」のは最後の最後でいい。全体の印象として楽しくないと見てもらえないし、共有してもらえない。
かつてのマス広告主体の時代から、ウェブ動画などが主体になるにつれて、人々に能動的に「見に来て」もらわなければならなくなったのだ。
楽しい歌に乗せ「馬鹿げた死に方」を描く
その見に来てもらう広告の例証として、2013年のカンヌライオンズで、フィルム部門、インテグレーテッド部門、PR部門、ダイレクト部門、ラジオ部門、なんと5つの部門でグランプリを受賞した「Dumb Ways to Die(馬鹿げた死に方)」という作品を紹介しよう。
これは、オーストラリアのメトロ公社によって実施された広告で、酒酔いや不注意から線路に落ちて死亡する若者が絶えないことから、彼らに対して地下鉄で死ぬようなことのないよう注意を促したものだ。
さまざまなメディアを使って行われたこのキャンペーンのコアとなるのは、3分ほどのアニメーション動画だ。可愛らしいキャラクターたちで、ユーモアにあふれた、文字通り「馬鹿げた死に方」を描いていく。しかも、覚えやすくウキウキするような楽しい歌に乗せてだ。
例えば、髪に火をつけて燃えあがったり、熊をつついて食べられてしまったり、消費期限切れの薬を大量に飲んだり、ピラニアのいる河に飛び込んで餌食になったり。そして、このキャラクターたちが、楽しそうに「たくさんの、たくさんの馬鹿げた死に方」と歌うのだ。
さらに、トースターにフォークを差し込んで感電したり、毒蛇をペットにしようとして噛みつかれたり、なんだかわからないボタンを好奇心だけで押して大爆発を起こしたりと、たくさんの馬鹿げた死に方が、これでもか、これでもかと描かれる。いくら見ていても、鉄道も地下鉄も駅のホームも出てこない。
全体の3分の2である2分を過ぎたあたりで、少し歌の調子が変わるところがあって、従来の常識からすれば、遅くてもこの辺からは「本来の伝えたいこと」に移行するのかと思ってみても、まだ「馬鹿げた死に方」の描写が続く。狩の季節に鹿の格好で森に行って銃で撃たれたり、蜂の巣を持って遊んで刺されまくったり、エトセトラ、エトセトラ。
そして、最後の最後、残り40秒くらいになって、やっと地下鉄の線路にうかつに降りてはイケナイといった、本来の広告メッセージが表示される。