「本当は何したかったのかな、儲けたかったのかな」
ユヌスの事業を日本に広めていた九州大学の岡田は当時ユヌスと共に様々な企業にソーシャルビジネスをしないか、と話を持ちかけていた。しかし、大﨑以外なかなか手が上がらなかった。なぜ大﨑のようにソーシャルビジネスをやりたがらないのか、岡田はいくつかある理由の一つに「自分の人生について考えている経営者がいない」と答えた。
ソーシャルビジネスデーで登壇する岡田
欧米の企業の人たちは生き方や哲学を考える人たちが多い。しかし、日本の社長はフィロソフィーの前提としてお金や金儲けがある。ずっと彼らと契約交渉してきた岡田がいつも思うのは、彼らの役割のなかで金儲けの意識が強いあまり、なぜその仕事をしているのかという意識が二の次になっていることだった。日中は仕事、夜は飲み会、土日はゴルフ。全てはビジネスを起点にまわっている。
大﨑自身が「座って食べる余裕がない」忙しさだったはず。どこで人生を見つめたのか、その瞬間を聞くと、父親、母親、妻の3人をガンで亡くしたときだと大﨑は言った。大切な人たちが自分の前からいなくなろうとしている時でも、頭の中には仕事のことがあったのだという。
大﨑の母親が3回目の手術をしたとき、医師と看護師が涙を流し始めた。「内臓が溶けて」、縫おうと思っても糸が通らなかったのだ。手術で内臓を取り出し、内臓が空っぽのような状態になった母親は「お母ちゃんは大丈夫やから、はよ会社に行き」と大﨑を促した。そんな状態でもまだ仕事のことを考えている自分に気づき、吉本を辞めようと思った。辞めてしまえば母親の入院費は払えない。「俺はどうしたらええのや」
当時の大﨑は大阪から始発の新幹線に乗り、東京で仕事をしてから、最終の新幹線に乗って母親の元を訪れる生活を繰り返していた。1年以上その生活が続いた。
大﨑の妻が闘病生活を続けていたときも、自分のことを振り返らざるを得なかった。
「俺ってそもそもお笑いの仕事したいんやったっけ。一生この仕事でええんやったっけ。あれなんで吉本入ったんやったっけ。本当は何したかったんかな、儲けたかったんかな。儲けたいけど、そんなに大金持ちとかなりたくないなぁ」
それからも、我を忘れて仕事をすることはあっても、仕事で立ち止まることはなかった。
「(人生について)考えたらいいかってもんでもないしね。死ぬことってすごく大事なことじゃないですか。だから子供の時とかに目が覚めて、あれ、大好きな父ちゃんも母ちゃんも僕より先に死ぬんだって思ったらいても立てられなくなるじゃないですか。死ぬって人間にとって大事なことだからこそ、見つめすぎたらいけないと思うわけですよ。ある程度距離を取らないといけないと思う。この時期はここまで、この時期はここまでって」
刻々と進む時間の中で大﨑は、死と距離をとりながら自分が本当はどんな人間だったか、どんなことをしたいのかを頭の片隅で考えるようにしていた。その積み重ねが地域住民を巻き込んだ沖縄国際映画祭、地域の課題に取り組む47都道府県の「住みます芸人」、そして「住みます芸人」を事業化する「ユヌス・よしもとソーシャルアクション」に繋がっていく。