2004年から3年間、内閣府で男女共同参画分析官を務め、以降は社外での活動も増え、現在は少子高齢化社会対策、ダイバーシティ、ワーク・ライフ・バランスを専門とする主席研究員だ。華々しく活躍する彼女だが、もとは内向的な性格で、人前で話すと声が震えるほどだったという。
そんな自身の体験から、矢島は「ダイバーシティ推進を通じて生きづらさを感じる人を減らしたい」と話す。
──矢島さんは、「働き方改革」や「ダイバーシティ」という言葉が世間に浸透する前から、これらのテーマに関するリサーチをされていたそうですね。
私が三和総合研究所(現三菱UFJリサーチ&コンサルティング)に入社したのは1989年でした。
20代の頃は、主に高齢者の介護問題に取り組みました。その後、少子化対策にも取り組むようになり、ワーク・ライフ・バランスや女性活躍の問題などに発展していきました。
──その頃は、まだシンクタンク自体ができてまもない時期ですよね。なぜ、シンクタンクで働いてみたいと思ったのですか?
私は会社のプロパー一期生でした。私が就職活動をしていた1980年代の後半は、企業から学生に郵送で会社案内が届く時代でした。そのなかの一通から、三和総合研究所で学卒の一般職を募集するということを知ったんです。
私は内向的な性格で、就職活動は失敗続きでした。調査という仕事に関心があったので、最後の頼みの綱的な思いで受けてみたら、アピール下手な私の話にじっくりと耳を傾けていただいて運よく採用されたという感じです。
──大学で学生に講義をしたり、各地で講演会を行ったりされているいまの矢島さんと、「内向的な性格」という言葉には少しギャップがありますね。
仕事をするうちに経験を積むことで自信がついてきましたが、子どもの頃からずっと、人前に出るのが苦手な性格だったんです。
学校での発表の場ではいつも緊張して声が震えていましたし、大学時代には「あなたみたいに内気そうな人は、接客に向いていない」という理由でパン屋のアルバイトを断られたこともあるほど。就職試験でも面接でうまく話すことができなかったんです。
──入社してから、どのようにキャリアを積まれてきたのですか?
一般職として入社し、まずは総務や調査補助を通じて仕事を覚えました。その後、総合職に転換して最初に任されたのが高齢者の介護問題に関するリサーチでした。
華々しいビジネステーマよりも、自分自身、心から問題意識が持てるテーマだったので、はまったんです。仕事が楽しくて、20代はとにかく夢中で働きました。
ところが、30歳手前で家庭の事情で新潟へ引っ越すことになったときに、ふと立ち止まってしまったんです。このまま仕事第一で走っていてよいのだろうか、と。
子どもも欲しかったですし、仕事以外の人生にも目を向けようと思い、一旦、退職したんです。当時の会長の提案で、「嘱託」という形で籍は残していただいたのですが、その後、子どもにも恵まれて、しばらくは子育てに専念していました。