父から言われた「ワールドクラスの努力」
世界で圧倒的シェアを誇るウーバーに勝てるのか、という問いにミウラ・コーはこう答える。
「信じていなければ、一緒に歩むのは難しい─」
現在、企業価値151億ドル(約1兆6000億円)と推定されるライドシェアサービスのリフトが、まだ前身のジムライドだった2010年にシード投資をし、取締役を8年務める。「交通革命が起きる」。そう判断しての大きな賭けだった。現在もウーバーと熾烈な価格競争を繰り広げるリフトを「家族」のように思い、成功を確信している、と語る。物静かに見える風貌とは裏腹、情熱的な口ぶりで、一を聞けば論理的に十即答する。
ミウラ・コーは日本から移住した父母の元で育った日系2世だ。アメリカという異国の地で共に闘ってきた家族のことを聞かれると、彼女の顔は一層明るくなる。「子供のころは『変な子』だったとよく母に言われました」。日本人の家庭とアメリカの文化の差に驚いたのか、アメリカ人の教師や友人を蹴っ飛ばすなど攻撃的な態度を取り、うまく馴染めず、特別支援学級にいたこともあったという。
また、とてもシャイな少女だった。
子供の頃大好きだったピアノの発表会では、自分が弾く番になり、ステージに上がっても自己紹介ができない。2つ上の兄が助け船を出して紹介してくれた。「このままではいけない」。彼女が最初に「変わろう」と決意した瞬間だった。
そんな彼女をいつも応援してくれた母親は彼女に大きな影響を与えたようだ。
「私は兄のようなオールAタイプの子供ではなく、IQテストの点も悪いため、英才児向けの特別プログラムに入ることができなかったんです。そんな時、母は学校に来て、『うちの娘は才能があります。テストが間違っているんです。もう一度娘にテストを受けさせてください』と直談判してくれました」
スロースターターでユニークな子供だった自分をずっと信じてくれた、と彼女は回想する。その言葉に、ボンネットに飾る「ピンクの髭」をひっさげて6年前に世に現われたリフトとミウラ・コーの関係が重なる。
NASAのロケット研究者だった父が常に娘に言ったのは「ワールドクラスの努力をしろ」だった。日本人の駐在員の子供が行く日本語補習学校には行かずに家庭内で両親が日本的な教育を担っていた。母、典子は言う。
「ある時、玲子(アンの日本人名)がやってきて、『お父さんは日本に帰るの? 帰るんだったら今すぐ帰って。お母さんと日本の理科をやっているけど、なんか変。本当のじゃないから。今すぐ帰らないと日本で一番になれない。今すぐ帰らないなら、アメリカの学校をファーストプライオリティでやっていく』と宣言しました。以後(アメリカに住んでいるのは)親の都合もあるけれど『自身で選んだ道』という自覚が加わったようです」
ミウラ・コーは、高校入学後、怖さを感じつつも、あえてディベートチームに参加し、トーナメントに出場した。しかし、結果は惨憺たるものだった。すべてのトーナメントで10位にも入れず惨敗した。しかし、彼女はあきらめなかった。ディベートに情熱を感じていたからだ。
日本語の家庭で育った彼女が、英語ネイティブの学生にかなうわけがない、別の対象に打ち込んだ方がいいのではないかという両親を遮り、決意表明をした。
「夏の間、ディベートの準備をします。次のトーナメントで1位か2位にならなかったら、ディベートはきっぱりとやめますから」
その夏は、毎日のように図書館に通い、ディベートのテーマになりそうな話題を読みあさった。それぞれの話題で議論されそうな争点や結論を書き出し、自分で“一人ディベート”をした。
「私ほど準備をした人はいない。そう確信できるくらい万全の準備でトーナメントに臨んだんです。登壇した瞬間から、すでに“勝った”と確信しました」
確信通り、彼女は、カリフォルニア州のトーナメントでは2位に、全米トーナメントでは優勝した。