しかし、「Just Be Yourself」という審査員の言葉に、「勝つための手段」ではなく、「本当の自分」とは何なのかを考えさせられた。すると、NYに来てからの6年間が、走馬灯のように蘇ってきた。
それまで後閑は、NYでいちばんのバーテンダーになるという夢を持ち、意地を張って生きて来た。技術はあるのに、英語が話せないことで足元を見られ、日給15ドルで働き、プレーンベーグルだけを食べて暮らした苦しかった時代もあった。コンテストの前年にあった東日本大震災。日本に帰りたかったが、NYで働き続けると決めて、退路を絶った。
後閑は決勝に臨むにあたって、戦略も、ストーリーも、全部捨てて、素の自分で勝負しようと決めた。準備していた台本も捨てた。すると、ステージでは自然に言葉が溢れ出て来た。もともと話すつもりなどまったくなかった、NYでの下積みの日々、東日本大震災のこと。気づくと、それらを泣きながら話していた。会場からも、嗚咽が聞こえた。審査員たちの目にも、涙があった。
コンテストでは、5人の審査員に対して、本来はカクテルを2杯つくればよい決まりだ。しかし、カクテルは最初のひと口が肝心。審査員全員にその最良のひと口を味わって欲しいと、予選からずっと人数分をつくって来た。
5杯つくると、審査員にサーブするまでは間に合うかもしれないが、片付けが終わらせられるか。それでも味に妥協はできないと5杯をつくり、サーブしたところでタイムアップ。「間に合わなかったか」とステージを振り返ると、驚きの光景が広がっていた。なんと、片付けが終わっていたのだ。
舞台袖にいたライバルのバーテンダーたちが、ステージに駆け上がり、片付けを済ませてくれていたのだ。信じられなかった。俺は自分が勝つことだけを考えてここに来たのに……。感動と驚きで、涙が溢れ出て来るのを感じながら、「なんで、そんなことができるんだ」と聞くと、「当たり前のことをやっただけだよ。お前も逆の立場だったら、きっとそうするだろ」という答えが返って来た。
「もう順位なんてどうでもいい」と思う自分そこにいた。そんな気持ちで、「The winner is from NY!」というアナウンスを聞いた。「from NY」、そのとき、あれほど欲しかった世界一のタイトルが、自分の手の中にあることに気づいた。
それからは、「このタイトルは、自分だけのものではない」と考え方が変わった。手伝ってくれたのは、誰が世界一になってもおかしくない、腕利きのバーテンダーたちだった。世界一は、たまたま自分が手にしたもの。だからこそ、この賞に恥じないようにやっていこうと決めた。
賞の一環として世界ツアーがあり、受賞者である後閑は、世界各地で行なわれるプロモーションイベントにゲストバーテンダーとして参加した。講演会や講習会などの依頼も、すべて受けた。あちこちからの招聘に積極的に応えた結果、ヘッドバーテンダーを務めるNYのバー「Angel’s Share」の現場には立てなくなった。そこで、新しいカクテルのレシピづくりや、バーの監修、スタッフ教育などを仕事の中心に置くことにした。
公式イベントに参加するだけでなく、業界全体のために貢献したいと、後閑は個人的にもバーテンダーの教育に力を注いだ。若い世代に自分がこれまで吸収してきたことを伝えてきた結果、後閑の元から、すでに世界チャンピオンが2人、国代表は5人誕生している。