視野の定義能力が思考停止社会から救う
どこに世界を定義するのかは、その人の考えや行動や人生とてつもなく大きな影響を与えるものだなとよく思います。
私が最も尊敬する科学者の一人であるリサ・ランドール博士が、著書「宇宙の扉をノックする(原題:Knocking on Heaven’s door)」で下記のように書いています。
“人は何かを見るとき、聞くとき、味わうとき、嗅ぐとき、触れるとき、そのほぼすべてにおいて、細かい部分にぐっと近寄って丹念に検討するか、あるいは別の優先基準をもとに「全体像」を検討するかを決めている。”
上記の文とともに、このような図を載せています。
この本ではスケールという言葉が使われていますが、視野、系、規模、スコープ、なんと表現してもよいです。ここでは視野という言葉を使いますが、よく言われる「視野を広く持て」というのは実は嘘で、本当は視野を広くも狭くも自由に定義できる能力が重要です。
最近漫画化されてベストセラーになっている原作吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」にも同じような概念が書かれており、主人公が「人間って分子なのかも」と気づいたときに視野の定義能力を獲得しています。
特に研究者や経営者にはイマジネーションがとても大切だと思いますが、視野を広い範囲に設定できると相似形を見出すことで発想力が上がるなと思います。
視野を一定にしか定義できない人は、同じ毎日の中で、同じ愚痴を見出します。一方で、私が京都に住んでいたとき「哲学の道」のすぐ近くに住んでいましたが、例えば視野の定義によっては、京都大学の哲学者西田幾多郎先生のように近所の道を散歩するだけで世界の真理にもたどり着くこともできます。
また例えば、証明は困難だと思われていたABC予想に対して誰もが理解不能な発想の宇宙際タイヒミュラー理論で証明した望月教授は、研究室のHPによるとNHKみんなのうた「そっくりハウス」から相似形を見出して発想したそうです。
いろんな人を観察していると、視野の定義能力をインストールしている人は思考停止に陥っていない人が多く、発想力が高かったり、問題解決能力がぐっと高い人が多いなとよく思います。
命を燃やすことと、命を失うことの違い
さて、思考停止に関連する話で、「命を燃やすこと」と「命を失うこと」の違いは何だろうかと考えました。すべての生命は生きている限り、みんな命を少しずつ失っていっているのは同じです。例えば、30歳の人だとすると30年分の命は既になくなって取り戻せません。
ここで個人の人生にとっての大きな問題は、果たして命を燃やしたのか、命を失ったのか? ということです。
命ほど大切で尊いものはないと思いますが、その大切な命の一部分を燃やして、炎のように光や熱などのエネルギーを何か生み出したのか、それとも単純に何も生み出さずに命を失っただけなのか、という違いです。なぜそれが大きな問題であるかは、生存の意味に直結するからです。