生命を燃やすことと失うことの違い ゲノム解析研究者の問い

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時間は、前から見るのと後から振り返って見るのでは随分印象が違うものだなとよく思いますが、命を燃やしたのか失ったのかは、前からはいつもわからず、ほとんどの場合は後になってからわかります。ではどうしようもないのかというとそうではなく、自分も含めいろんな人のケースを観察していて気付いたのは、その一つのヒントが思考にあるということです。

思考停止に陥っているときは、気づいた頃にはいつのまにか命をただ失っていることが多く、逆に、1. 最大限に思考をしてからその時間を使った場合、または、2. 意識はしていなくても真剣にがむしゃらに思考せざるを得ない状況に結果的に身を置いていた場合には、命を燃やして輝いていることが多いということです。

1のケースは例えば、考え抜いた結果、「どう転んでも後悔しないという覚悟でこの仕事にチャレンジする」と決めたような場合です。2は例えば、自分にとって挑戦的な環境に身を置き(私の場合は起業でした)、知らぬうちに強制的に考え抜かなければいけないような場合です。上記のどちらかの場合は、それがうまくいくかいかないかの表面的な結果に関わらず、後から振り返っても命を燃やしたかわりに、光や熱量を生み出していることが多いです。

ただ気をつけなければいけないのは、1と2は並列ではなく、若いときほど2のケースが多く、年齢を重ねて大人になればなるほど難しくなります。なぜなら、2は自分の想像を超えなければいけないのと、外部環境に依存するにもかかわらず大人になるほど自由選択が増えるからです。例えば高校生や新卒社員だと、知らないことについて強制的に勉強しないといけない等の環境がよくありますが、大人になると想定外の経験を強制される場面はなかなかありません。

つまり大人になればなるほど、意識的に何かに向かって思考をしないと、ただ命を失っているだけの時間が増えていくことになります。また、思考には体力が必要なので有限ですが、それをストレッチさせるには行動量も必要になってきます。

ところで、隅々まで思考され尽くしたもの、例えば事業、サービス、論文、本、音楽、アート作品など、命が凝縮されたエネルギーの産物に出会うと、本当に心底感動し、命は美しく素晴らしいものだなと思います。

もしも日々の生活での疲れが取れなくなってしまって、そのせいで思考停止に陥ってしまっている人がいたら、そういう命の凝縮のエネルギー産物に触れるとよいです。炎と同じように、命を燃やして生まれた光や熱のエネルギーはどんどん伝染していくからです。

私は、私の命を燃やして何を生み出すのだろうか、と考えます。いろいろと考えてしまいますが、例えば世にサービスを提供したり、生命科学の研究をして新しい発見についての論文を世界に発信することかなと思います。思考停止している方が楽なのは楽ですが、意識的に思考時間を自分のカレンダーに予約するようにして、これからも命を燃やしていく人生でありたいと思っています。

そして、多くの生命が単に失われるだけでなく、美しい炎を灯しますように、と思います。

文=高橋祥子

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