アートではもうひとつ思い出がある。
50歳のとき、記念に1カ月の休暇を取って、旅をした。和歌山の熊野古道を3日間巡礼したり、イスタンブールからサンクトペテルブルクまで、バックパックで19日間の世界一周をしたり、非常に有意義な時間を過ごした。
その休暇の半ば、ニューヨークのホテルのバーでお酒を飲んでいたときのこと。バーのオーナーはダニエル・ブルーというフレンチ界のスターシェフなのだが、僕を見つけるなり「久しぶり! 元気かい? ゆっくり話したいんだけど、これからミック・ジャガーの相手をしに行かなきゃならないんだ。何か好きなお酒、飲んでいっていいから」と言われた。
すると一部始終を見ていた僕の隣のアメリカ人男性が、ダニエルのファンらしく、「君は彼を知っているのかい?」と訊いてきた。「うん、昔からの知り合いなんだ」と答えると、羨ましそうに僕を見つめてから、「君はアートに興味ある?」と尋ねる。「あるよ」「いつまでニューヨークにいる?」「明日の夕方の便でイスタンブールに行かなきゃいけないんだ」「じゃあ明日の午前中に俺の事務所に来てくれ」。
そう言って、彼は僕に名刺をくれた。フレデリックという名前だった。
翌朝、トランプタワーのなかにある彼のオフィス兼住居を訪ねると、そこはアートギャラリーのような趣。フレデリックは画商だった。エゴン・シーレや現代アートのすごくカッコいい作品をたくさん見せてくれたあと、彼は風景画が2点かかっている壁へと僕を案内した。
「モネだよ。こっちは15億、あっちは22億」。その金額にさすがに驚きを隠せずにいると、「もし君が日本人のお客さんを探してきてくれたら、手数料として5%あげる」と続けるではないか(笑)。そして自分は近代美術館に卸したりしているし、怪しい者ではないからと、プロフィールと作品リストをメールしてくれた。
きっと僕がダニエルと知り合いだから、アート好きな日本人の資産家くらい知っているんじゃないか、と踏んだのだろう。残念ながら、なかなか15億のモネを買うような知人は見つからなかったのだけど。
考えてみると、アートの“価値”というのは、その作家や作品に対してどれだけ深く熱中してくれる人がいるか、という気がする。たとえば奈良美智(よしとも)さんの絵を10万円なら買うという人が1,000人いるより、1億円でも買うよという人が3人いるほうが、作家に対する価値が高くなる。
もっと言えば、ふたり、熱烈なファンがいれば、その人が巨匠になり得る可能性が出てくる。オークションでふたりが競り合って高額な価格で落札された瞬間、作品の価格は作家の価値となり、一般的に周知されていくわけだから。
なんにせよ、人の才能やつくった作品にお金を張れる人というのは素晴らしい。アートにおけるお金というのは、それ自身を輝かせる“スポットライト”のようなもの。作家だけが文化をつくりだしているのではない。スポンサーやパトロン、ファンだって文化に貢献しているのだ。
もうひとつ、アートの価値という観点で素晴らしいと思っていることがある。お茶の世界で茶道具の良いものを持っている人は、「お預かりしている」という言葉をよく口にされる。自分が所有しているのではなく、「いまの時代は私が預かることを許された」という美意識。そうやって時代を経て、人から人へと作品を受け継いでいくことで、価値というのはいや増すのだろう。