もちろん今回の訪問がツッコミどころ満載だったということはわかっている。プラハ演説では40回も「核」という言葉を使ったのに今回はわずか2回だったし、平和記念資料館の滞在時間にしてもわずか10分だった。
もっと言うなら、核発射ボタンが入ったブリーフケースを携えた武官を帯同させていたのも被爆地への礼をはなはだ欠いているし、本気で「核なき世界」の実現を目指すのであれば長崎にも足を向けるべきだったろう。
このたびの広島訪問がある種の政治的ショーだったことは明らかだ。
にもかかわらず、なぜこれほどまでに強く心を揺さぶられたのだろうか。当初の予定をはるかにオーバーして17分間も言葉を尽くしたからだろうか。それとも被爆者たちと直接言葉を交わし抱き合ったからだろうか。
もちろんそれも大きい。しかし演説するオバマ大統領のライブ映像を眺めながら、私はあの場所を支配する見えざる力に圧倒されていた。まるでいつかこの日が来ることを予見していたかのように、ある人物によって周到にあの地に埋め込まれた力に――。
1949年(昭和24年)8月6日、広島平和都市建設法が公布され、平和記念公園と記念館の設計コンペが行われた。このコンペで一等を獲得したのが建築家・丹下健三の案である。
丹下の案は異彩を放っていた。丹下は、課題として与えられた敷地の外側に位置し、取り壊しが検討されていた産業奨励館の残骸(現在の原爆ドーム)に照準をあわせるように南北に基準線を引き、この線上に広場や資料館を配したのである。
敷地の中心にあるのは原爆慰霊碑だ。墓石がそうであるように、モニュメントというのは通常どっしりとした形状をとる。荘厳さと時の経過にも耐え得る強度を兼ね備えなければならないためだが、原爆慰霊碑は違う。
その形状は、HPシェルと呼ばれる放物双曲面でできたトンネル型だ。このように向こう側が透けてみえる記念碑というのは、あまり例がない。ここに丹下健三の周到な仕掛けがある。