少しくらい不安でも挑戦する
そして2016年、電機連合(全日本電機・電子・情報関連産業労働組合連合会)の出身では初の女性候補者として参議院議員選挙に立候補。日本全国の電機関連産業各社へのあいさつ回りは10万人との握手が目標とされ、想像を絶する過酷な選挙戦だった。その合間、小学6年生の息子のため3日に一度は必ず大阪に帰って家事をこなした。社会の不条理を変えたい、という思いが彼女を駆り立てていた。
選挙に出ることを息子に説明する際も、家庭の事情で食事や習い事に制約がある息子の同級生の話をして、そんな子どもたちの力になりたいと言って了承を得た。息子は「それやったら、僕はさみしいの我慢するから頑張ってよ」と背中を押してくれたという。議員時代は、女性議員を増やすための超党派の議員連盟で事務局長を務め、男女均等の候補者擁立を求める法改正にも尽力した。しかし22年の参院選で落選、2期目はならなかった。パナソニックに復職を考えていたところ、まさかの第2次岸田文雄内閣の内閣総理大臣補佐官に抜擢される。
「周りから『野党議員だったのに!?』ってさんざん言われましたよ(笑)。人生の巡り合わせとしか言えません。チャンスが巡ってきたらそれをちゃんとつかんで、精いっぱい頑張るしかないですね」
賃金・雇用担当の補佐官として、石破茂内閣に変わった現在も男女の賃金格差を解消するべく奔走する。低迷する日本のジェンダーギャップ指数でまさに大きなボトルネックとなっている経済・政治分野の渦中で、矢田は今もあがき続けているのだ。「大事なのは同じ志をもつ仲間。ひとりはしんどいよ。先輩たちの姿も励みになりました。男女雇用機会均等法のため尽力された赤松良子さんにお会いしたときに『頑張りたまえ』と激励されたのを覚えてます。男言葉でびっくりしてんけどね(笑)」
彼女の人生には幾度の「女性初」があったことだろう。後に続く世代を振り返りながらも、まだまだ歩みを止めていない。「自分の人生においていちばん若いのは『今』だから。理不尽はいっぱいあるけど、諦めず、前向きに。自分がどうなりたいのかというのは、常に自分が描くしかない。その上でやれるかもしれないと少しでも思ったら、不安でもとにかく挑戦する。ひとつでもいいから前に進めたいですよね」
矢田稚子◎1984年、松下電器産業(現・パナソニックホールディングス)入社。2000年松下電器産業労働組合中央執行委員、14年パナソニックグループ労働組合連合会、副中央執行委員長、電機連合男女平等政策委員長を歴任。16年参院議員比例代表当選、22年参院議員任期満了。23年9月第2次岸田内閣で内閣総理大臣補佐官(賃金・雇用担当)就任。以後、第1次・第2次石破内閣でも、内閣総理大臣補佐官を務める。