「会うべき人」がいることは、ラグジュアリーかもしれない

ミラノの刑務所で開催されたアート展の作品に、見学者がポストイットに書き残した「外で会おう」とのメッセージ

「会うべき」人とはどういう存在なのだろうか。それは、自分自身に立ち返らせてくれる人、自分がもっているものではなく、自分が「ある」ということを祝福してくれる人、といえるかもしれない。安西さんの文章を読みながら、そう感じた出来事を思い出しました。
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私の誕生日に、ある友人から一通のメッセージが届きました。彼との出会いは、ロンドンの大学院入学の条件を満たすために通った語学学校でした。カザフスタンから国費で公共政策を学びに来ていた彼と、個人的なデザインの探究心を満たすために留学を選んだ私を結ぶのは、「語学力を伸ばさなければ夢が叶わない」という状況だけ。国籍も背景も専門分野も異なる私たちは「生身の自分」で向き合うしかありませんでした。

伝えたいことも思うように言えず、相手が話していることもちゃんと理解しているかわからない。会話のほとんどが日々のランチや課題の感想といった他愛もない話題ばかりです。それでも、不確かな状況を共に乗り越えるなかで、戦友のような特別な連帯感が芽生えました。

それから10年以上、彼とは頻繁に交流があったわけではありません。むしろほぼゼロに近い。しかし、今でも私に「誕生日おめでとう!」と一言送る価値を見出してくれている。そのことに突然気づき、胸が熱くなりました。
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彼との関係を考えながら、社会心理学者のエーリッヒ・フロムの著書『生きるということ』で描かれた「持つ」と「ある」の生き方の違いを思い出しました。フロムは、人生の喜びや意味は「持つ」ことではなく「ある」ことに基づくと主張します。

「持つ」生き方とは財産や知識、地位や権力を所有することで満足を得ようとする生き方です。一方、「ある」生き方とは、愛すること、共有すること、創造することにより自分自身を生かす生き方です。
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フロムが、この生き方の違いを説明するのに用いた2つの詩があります。ひとつは日本の詩人芭蕉の俳句で、もうひとつはイギリスの詩人テニソンの作品です。どちらも散歩中に見つけた花に対する思いをつづった詩です。テニソンの詩はこうです。

“ひび割れた壁に咲く花よ
私はお前を割れ目から摘み取る
私はお前をこのように、根ごと手に取る
小さな花よ——もしも私に理解できたら
お前がなんであるのか、根ばかりでなく、お前のすべてを
その時私は神が何か、人間が何かを知るだろう”

次に、芭蕉の俳句はこうです。

“よく見れば なずな花咲く 垣根かな”

テニソンは花を「持つ」ことを望んでいる、とフロムは指摘します。本質を理解するために命を奪う必要があると。一方、芭蕉は、垣根にある花を「よく見る」ことで花と一体化し、そこにある生命を尊重しようとします。この違いこそが、「持つ」と「ある」の生き方の違いを象徴している、と。
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文=安西洋之(前半)・前澤知美(後半)

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