この「声」に一つ傾向があるとすれば、オフキャンパスがカバーしている刑務所内にいる18歳から35歳までの男性収監者は、自分の犯した罪を悔いながら遠く離れた場所にいる母親に謝罪している、というものです。父親ではなく母親なのです。
そこでネットフリックスで最近みたドキュメンタリー映画を思い出しました。米国の刑務所には、収監されている父親たちが自分の娘たちに会い一緒に踊るというプログラムがあります。前々からお互いに準備をして服も新調し、不安と期待が交じり合う気持ちを抱きながら、刑務所内で出会う。抱き合って喜ぶわけですが、この経験を経た父親の9割以上が二度と罪を犯さないというデータがあります。
しかし、経済やビザの問題から、刑務所にいる人たちの家族がミラノまで来る確率は極めて低い。母親なら苦境にいる子どもを直接励ましたいと思うはずです。母親がそう思い悩む苦しみの原因をつくってしまった、母親を悲しませてしまったから息子は謝るのでしょうね。
「会うべき人」がいることがどんなに大切かを思い知らされたのですが、会うべき人は、こうした親子関係に限りません。前述したように、展示作品には収監者と同じところに見学者がポストイットでメッセージを書き残していけます。数あるメッセージは「外で会おう」というものでした。塀の内側にいる人、外側にいる人、どちらも感じることです。「ここでは直接会えないけれど、いつか会おう」と呼びかけた場合、これは会うべき人なのだろうと思いました。
「べき」という言葉は、とても重いです。とても深い関係を示唆します。社会がどのような形態であろうと、またはどのような形態になろうとも、会うべき人という存在はなくならないでしょう。長い付き合いだから「会うべき」ということもあるし、歩んでいく道を示唆してくれるかもしれない未だ会ったこともない人も「会うべき」のカテゴリーに入るでしょう。
会うべき人が常にいると心で感じているのが肝心ではないかと思いました。その人数は問わず、1人でもそういう人を据えておくことが、心に隙をつくらないことになる──。
そう考えながら、ふと思ったことがあります。心の隙を満たそうとするラグジュアリーではなく、心の隙をつくらないラグジュアリーというありようがあるのでは? 前澤さん、どうでしょう?