「会うべき人」がいることは、ラグジュアリーかもしれない

ミラノの刑務所で開催されたアート展の作品に、見学者がポストイットに書き残した「外で会おう」とのメッセージ

 窓と共に安売りなどの広告のチラシも切り貼り窓と共に安売りなどの広告のチラシも切り貼り

作品としては、窓が繰り返し描かれたもの、値引き価格やディスカウント率が記載された広告チラシの切れ端が、大きな紙に無数に貼り付けられ、刑務所の長い廊下の壁に展示されていました。そのところどころに収監者や見学者がポストイットに書いたフレーズがイタリア語やその他の言葉で貼られています。また、使われなくなった監獄のなかでは収監者や看守の声の記録も聞けます。
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この「声」に一つ傾向があるとすれば、オフキャンパスがカバーしている刑務所内にいる18歳から35歳までの男性収監者は、自分の犯した罪を悔いながら遠く離れた場所にいる母親に謝罪している、というものです。父親ではなく母親なのです。
窓が繰り返し描かれている

窓が繰り返し描かれている作品のなかに、ポストイットでメッセージが残されている

そこでネットフリックスで最近みたドキュメンタリー映画を思い出しました。米国の刑務所には、収監されている父親たちが自分の娘たちに会い一緒に踊るというプログラムがあります。前々からお互いに準備をして服も新調し、不安と期待が交じり合う気持ちを抱きながら、刑務所内で出会う。抱き合って喜ぶわけですが、この経験を経た父親の9割以上が二度と罪を犯さないというデータがあります。

しかし、経済やビザの問題から、刑務所にいる人たちの家族がミラノまで来る確率は極めて低い。母親なら苦境にいる子どもを直接励ましたいと思うはずです。母親がそう思い悩む苦しみの原因をつくってしまった、母親を悲しませてしまったから息子は謝るのでしょうね。

「会うべき人」がいることがどんなに大切かを思い知らされたのですが、会うべき人は、こうした親子関係に限りません。前述したように、展示作品には収監者と同じところに見学者がポストイットでメッセージを書き残していけます。数あるメッセージは「外で会おう」というものでした。塀の内側にいる人、外側にいる人、どちらも感じることです。「ここでは直接会えないけれど、いつか会おう」と呼びかけた場合、これは会うべき人なのだろうと思いました。
今や収監するには相応しくない部分で、今回の展示は行われ。このようなところで、看守や収監者の録音された声が聴ける。

今や収監するには相応しくない部分で、今回の展示は行われる。このようなところで、看守や収監者の録音された声が聴ける。

「べき」という言葉は、とても重いです。とても深い関係を示唆します。社会がどのような形態であろうと、またはどのような形態になろうとも、会うべき人という存在はなくならないでしょう。長い付き合いだから「会うべき」ということもあるし、歩んでいく道を示唆してくれるかもしれない未だ会ったこともない人も「会うべき」のカテゴリーに入るでしょう。
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会うべき人が常にいると心で感じているのが肝心ではないかと思いました。その人数は問わず、1人でもそういう人を据えておくことが、心に隙をつくらないことになる──。

そう考えながら、ふと思ったことがあります。心の隙を満たそうとするラグジュアリーではなく、心の隙をつくらないラグジュアリーというありようがあるのでは? 前澤さん、どうでしょう?
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文=安西洋之(前半)・前澤知美(後半)

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