防衛省防衛研究所の庄司潤一郎研究顧問によれば、盧溝橋事件を巡っては、かつて「誰が最初の一発を放ったのか」という問題に関心が集まった。「日本軍説」「大陸浪人説」「中国共産党軍説」など様々な陰謀論が飛び交ったが、1980年代になって史料が出始め、今では「偶発説」が定説になっているという。日本軍の夜間演習に驚いた中国第27軍兵士が発砲したというものだ。庄司氏が2006年から10年まで「日中歴史共同研究」に従事した際、中国側が用意したペーパーも偶発性を認めていたという。同時に、中国側は「歴史的経緯から日本による侵略は必然的に起こった」とも主張していた。
ただ、庄司氏によれば、戦線が北京から上海、南京へと拡大していくなかで、当時の日本には、現代でウクライナ侵攻を指示するロシアのプーチン大統領のような計画性や強い信念は感じられなかったという。庄司氏は「日本は当時、対ソ戦を中心戦略に据え、中国との戦争は想定していませんでした。当初は上海まで戦線を広げる考えはありませんでしたが、蒋介石が精鋭部隊を出して抗戦したことで、戦線が広がりました。もちろん、日本のやったことは‘侵略’ですが、計画的な‘侵略’とまでは言えないでしょう」と語る。
当時の日本は戦争指導で多くの問題点も抱えていた。庄司氏は「上海で快進撃が続いたため、目的もなく戦線を拡大しました。226事件や満州事変以降、当時の日本軍には、現場が先走って上層部に認めさせる下剋上の雰囲気が満ちていました。当時の統帥部は、戦線を拡大しないように地域を限定する制令線を指示していましたが、現地の日本軍は勝手に乗り越えて認めさせました」と語る。
当時、統帥権は独立していたため、政治が介入することはできなかった。軍内部では参謀本部第1部長(作戦担当)だった石原莞爾が戦線不拡大を唱えていたが、石原本人が満州事変を起こした中心人物だったこともあり、説得力をもって軍をまとめきれなかった。そもそも当時の軍には満州事変の記憶を持った軍人が大勢いて、下剋上を否定しない空気が流れていたという。国民も「日本軍勝利」の報道に熱狂し、提灯行列などを行い、戦果に酔った。