アジア

2024.07.07 09:15

盧溝橋事件とサイパン陥落 日本は7月7日の悲劇を総括できているのか

1944年7月14日、北マリアナ諸島サイパンの戦いの後、サイパン島の日本軍陣地を進む米海兵隊。(Photo by Keystone/Hulton Archive/Getty Images)

なし崩しに戦線を拡大させた日本の弱点は、終戦時に悲劇となって表れた。盧溝橋事件が起きた日と同じ7月7日は、サイパンで日本軍が最後の総攻撃を実施した日だ。80年前のこの戦いで、日本軍守備隊のほとんどが戦死し、島にいた民間人の約半数が亡くなった。一部は追い詰められたサイパン島北端のマッピ岬(バンザイクリフ)から身を投げるという悲劇が起きた。
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日本は1943年9月30日、御前会議で決定した「今後採るべき戦争指導の大綱」(第2回)でサイパンを含む地域を「絶対国防圏」と定めた。しかし、最前線の戦闘に集中するばかりで、サイパン島防衛の中核を担う第43師団の主力がサイパン島に到着したのは5月19日。米軍が上陸を開始する6月15日まで、すでに残り1カ月を切っていた。日本は後手後手に回り、米軍はその後もフィリピン、沖縄へと進軍し、大勢の人々が亡くなった。

天皇側近だった木戸幸一は、1945年5月初めに、沖縄を守備していた第32軍の攻勢が失敗に終わった段階で、ようやく戦争終結に向けた動きを始めた。だが、その時点に至っても、大本営は本土決戦に頭が集中し、「沖縄戦をどう終わらせるか」について意見する声もなかったという。結局、第32軍は5月22日、さらに抗戦するため、司令部があった首里から南部の喜屋武半島に撤退。混乱のなかで大勢の沖縄の人々が亡くなった。そもそも、サイパンが陥落した時点で終戦に動いていれば、フィリピンや硫黄島、沖縄などでの悲劇も回避できたかもしれない。

よく、「戦争は始めるのは簡単だが、終わらせるのは難しい」と言われる。ウクライナのゼレンスキー大統領は6月28日、戦争を終わらせるための「包括的な計画」を、今年中に同志国などに示す考えを明らかにした。ただ、ウクライナが準備している反転攻勢の時期や戦果、ロシアが固執する「4州併合」の行方次第では、まだまだ終戦まで予断を許さないだろう。
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日本で今、聞こえてくる発言は、麻生太郎・自民党副総裁が発言した「(台湾有事は)日本の存立危機事態」といった程度のものだろう。岸田文雄首相は抑止力強化を繰り返し唱えているが、有事を巡るデザインについての議論はほとんど聞こえてこない。

自衛隊関係者や専門家からは「米国の目的は中国との覇権争いに勝利することだ。日本の目的は住民の生命財産を守ることにある」という声も漏れる。米国が唱える対中抑止に協力することは必要なことだが、並行して住民保護が進まなければ意味がない。79年前、「沖縄の人々は本土の捨て石にされた」との批判がある一方、今度は沖縄を含む日本の人々が米国の捨て石にされたと憤る日がやってくるのかもしれない。

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文=牧野愛博

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