「この後もインタビューや議論を繰り返し、最終的には教室がまったく描かれない作品となりました。違和感のなかに、むしろ本質が隠れていることが多くあります。ですから案を見て従業員が感じる『言葉になっていない違和感』を切り捨てるのではなく、大切にするように心がけています」
「こころが沸き立つ感情」を喚起したい
個性的なファッションなどから、多くの人が赤澤社長に強面な印象を感じるのではないだろうか。だが実際に赤澤社長と話してみると、物腰も柔らかで会話の最中もユーモアを絶やさず、極めてコミュニケーション能力が高いことがわかる。前述の通り、数多くのメディアがOVER ALLsを取り上げている。それらの取材の大半は、赤澤社長自身が酒席などでメディア関係者と同席した際に意気投合して決まったり、知人の紹介などで実現したりしたものだ。
「番組制作者と知り合いになれば、テレビに出られる」との勘違いは世の中、そしてPR会社や広報担当者の間でも根強い。だが有名番組の制作者にとって、「売り込み」を受けるのは日常茶飯事。それだけで何とかなる程、甘くはない。実際、有名な番組になればなるほど、”情実”で取り上げることはほとんどない。テレビ局員であれ、制作会社の社員であれ、社内、そして他局との競争に常にさられているからだ。
そんな中で同社が取材されるのは、「映像にしやすい」という事業の特徴に加え、社長の個性や高いコミュニケーション能力によって番組制作者も同社のビジネスに共感するためだろう。
赤澤岳人社長
赤澤社長のコミュニケーション能力の高さは何に由来しているのだろうか。もちろん「天性」もあるだろうが、ビジネスパーソンとしての「規格外」の歩みも大いに貢献しているのではないか。
1981年生まれで「ロスジェネ世代」あるいは「ミレニアル世代」に属する赤澤社長。SNSなどを通して、さまざまな社会的背景や価値観を持つ人とコミュニケーションを取る機会も多い世代だ。それゆえ、ひとりひとりの個性や多様性を受け入れる傾向が強いと言われている。
いわゆる「氷河期」に就職活動に挑んだ彼は、「リクルートスーツを着る意味がわからない」と私服ですべての面接に挑み、あえなく全滅。大学卒業後に法科大学院に入学、弁護士を目指すも挫折し、ニートとして過ごす。まさに「就職氷河期の負け組の典型」のような20代だった。
初めて定職に就いたのは29歳のとき。人材大手のパソナに契約社員として入社した。そこで仕事を通じて自分の居場所ができることの喜びを実感し、「仕事=自己表現」と気付いたのだという。それを機に、契約社員ながら社内の新規事業コンテストに毎年、数十件もの事業アイデアを出し続け、3年目にはついに優勝を勝ち取るまでになった。正社員にも登用され、自身の企画した新規事業を立ち上げた。
パソナを退職後の2016年、プライベートで出会った画家の山本氏とともにOVER ALLsを設立することになる。
「自分自身、20代の頃は『夢』『希望』『浪漫』といった『こころが沸き立つ感情』を見失っていました。実はいま日本全体があのころの私のようになっているのではないか──。アートによって、日本に『こころが沸き立つ感情』を喚起したい。そんな想いが起業の原点にあります」
赤澤社長は、たくさんの日本企業のパーパスを描くことで痛感したことがあるという。それは「日本企業の持つ底力」だ。
「SNSなどでは『日本企業、特に大企業は終わった』という言説が支配的です。ですが、実際に経営者や従業員と話してみると、仕事への誠実な想いや真面目さ、人知れず地道な努力を積み重ねる姿勢がある。そこはもっと評価されるべきです。日本企業に足りないのは遊び心。いつかニューヨークの中心に、遊び心満載の『日本企業の素晴らしさを伝える壁画』を描きたいと願っています」