「共犯者のように誤解されるのを防ぐため『もち逃げにかかわっていない』と証明しなければならなくなった」。
窮地に陥った越川を救ったのが稲盛の周りにいる人たちだった。
「どこかで事情を知った稲盛さんの知人は、私の知らないところで出資者たちに『彼はだまされた側だから』と言ってくれていたそうです。それでぬれ衣を着せられずに済みました」。その後、H氏に対して民事裁判を起こし、約3年で全額、債権者に返済。事業家として出足でつまずく最大のピンチを乗り越えた。稲盛をしのぶように越川は言う。「あの時、周りの人たちが陰で私が被害者だと言ってくれたおかげで今がある。精神的に支えられました」
もうひとり、越川には恩人がいる。使用済みの天ぷら油を燃料化する世界的な研究者だった故・清水剛夫京都大学名誉教授(2015年、82歳で死去)である。清水と出会ったのは1992年。きっかけをつくったのは皮肉にもH氏だった。深夜型スーパーを経営するH氏は、総菜を揚げた後に廃棄物として残る天ぷら油の処置に困り、清水教授に相談。研究室でできた試作品のBDFが軽油の代替燃料として実際に使えるのか、実証実験を任されたのが、レーシングドライバーの故松本恵二が運営する会社に勤めていた越川だった。
当時、父親が設立した土建会社を辞めて「レーサーになる夢」を追いかけていた。
「天ぷら油を燃料にして走る。面白いと思いました。いつかこの燃料でル・マン24レースに出場し、完走したい。新たな夢になりました」。
中学では理科、高校では化学が得意で、土木工学を学ぶために進学した大阪工業大学短期大学部でも化学の勉強を続けてきた越川は学界の第一人者のもとで研究開発にのめり込み、壁にぶち当たると京大の研究室を訪ねた。「日々、ラボにこもってビーカーを振り続けていた」という。
「日本の廃食用油をBDFにするのは至難の業と言われた。海外と違い、日本の食用油は菜の花、ひまわりなど、いろいろあって個々に脂肪酸の組成が違う。中華料理店で使い倒した真っ黒けの天ぷら油からまだ使えそうな高級料亭の天ぷら油まで幅広く、調味料などの不純物も和食、中華、洋食でまったく違う。それらを均一で高純度の品質に精製する技術を確立するのに10年以上かかりました」
存続の危機 反転攻勢はレース出場
事業化を進める時に清水教授からもらった忘れがたい助言がある。「みんなが困っていることを何とかする。そのスタンスに徹しなさい」。
食用油にはパーム油(アブラヤシが原料)などさまざまなバージンオイルがあるが「そこに手を出せば世界の穀物メジャーを敵に回す」(清水教授)。つまり廃食用油の再生に徹して「循環型社会を目指せ」という導きだった。