「神戸に入ると、がれきの山と人の遺体でひどい惨状でした」。
いてもたってもいられず、市内のテント村で仲間と相談ボランティアを開設すると、復興支援の依頼が舞い込んだ。土建業の経験がある越川にとって重機の扱いはお手のものだが、被災地では燃料調達が難しかった。「研究中の燃料を使おう」。給油してみると重機は十二分に力を発揮し、災害現場でも高品質を証明した。
事業化に向けての課題だった原料の天ぷら油の安定的な確保もクリアできた。震災から2年後にCOP3京都会議が開催されることになり、廃食用油の活用を世界にアピールするため京都市が全面的に協力することになったのだ。空き缶集めのため越川が立ち上げたボランティア団体と京都市による「官民一体」で回収ルートを確立。地域の自治会を中心とした市民系と、飲食チェーン店などからの業務系の2系統で「安定的に回収できる体制を築くことができた」と振り返る。
すでにCOP3の時点で、製造されたBDFは京都市のゴミ収集車220台すべてで導入され、事業化の土台が整っていた。共同出資者による資金もち逃げ事件を危うく乗り切った越川は99年レボインターナショナルを設立し、BDF事業を本格化させていく。
だが、苦難の道のりはここからだった。産声を上げた会社は赤字が18年も続くのだ。「周りからは『いつつぶれるんだ』『なぜつぶれないんだ』と言われ続けました」。水面下で息継ぎひとつできないような苦しみをどう耐え抜いたのか。
「レース時代に培ったご縁が救ってくれました。かつてのスポンサーの方々を訪ね歩き、事業の内容をこと細かに説明すると、何人もの方が個人での出資に応じてくれたのです」。集まった出資金は約10億円。赤字を出し続ける名もない会社になぜ、それほどの出資が集まったのか。「事業の内容を説明すると皆さんが『社会にとっていいことやな』『いつか日の目を見る日が来るんと違うか』と言ってくれ、1人で5億円近く出資してくれた方もいました。私への信用しかありません。だからこそ、つぶすわけにはいかなかった」。
出資者たちに「日本社会の未来」を託された越川の反転攻勢へのきっかけは、カーレーサーを目指した越川らしくレースへの出場だった。「せっかく高品質なBDFをつくっても『使えない』と言われ続けた。JIS(日本工業規格)を取得するためにはレースで実証するしかなかった」。