刑事の誘導や作文によって、犯してもいない殺人の調書が作成されていく中で、西山さんは「そんなこと言っていない。それ(調書)を返して」と抵抗し、調書の奪い合いになったこともあると訴える。しかし、同時に「留置場から取調室に呼び出される時はうれしかった」とも振り返る。
「取調室に行くときは留置場係に番号を呼ばれる。私は、またあの人(刑事)に会えると思うとうれしくて『はいっ』て明るい声で返事をして、他の人に不思議がられていた。普通はつらいから、仮病で出ていかない人もいる。でも私は、また会える、と思うだけで、ルンルン気分だったんです」
虚偽自白への抵抗は弱まり、刑事への好意は、次第に調書を一緒に作り上げるパートナーとしての「結束」へと変化していった。
留置場で起きた偽りのシンデレラストーリー
ところで、グルーミングとは、もともとは動物の体をケアするなどの意味で使われてきた言葉だ。犯罪用語として米国での歴史は80年代ごろにさかのぼる。教師やコーチなど、権力を持つ立場の大人による子どもに対する性犯罪の背景に、子供を手なづけて性加害に及ぶプロセスがあり「性的グルーミング」と呼ばれるようになった。近年では、ネット上で知り合った未成年者をたぶらかし、わいせつな写真を送らせるケースもそれに当たる。法務省の「性犯罪に関する刑事法検討会」(2021年)の取りまとめ報告書は、グルーミングについて「手なずけの意味であり、具体的には子供に接近して信頼を得てその罪悪感や羞恥心を利用するなどして関係性をコントロールする行為」と明記。加害の実行に至らない手なづけ行為の段階で処罰の対象とすることまで検討された。
圧倒的な権力を持つ捜査機関がグルーミングを実行することなど、ここでは想定されていないが、仮に密室の取調室で弱い立場の被疑者を相手にグルーミングを駆使して虚偽供述を得ようとすれば、冤罪を生む危険が限りなく大きくなるだろう。許されざる「禁じ手」であることは言うまでもない。
再審無罪判決文には、西山さんの刑事にのめり込んでいく生々しい言葉が、供述調書から抜き出され、明示された。
「刑事さん、私を見捨てないでください。こんな私を最後まで見守ってください」「何でこんな私のために一生懸命してくれるのだろう。本当にうれしい。こんな人は初めてや。私はどうしたらいいんでしょう」
自白調書というより、もはや、1人の男性に人生をゆだねる心理にさせられた女性の告白に近い。
ジャニーズでは、喜多川氏からの突然の電話で上京する「いきなりデビュー」が恒例だったといい、そのシンデレラストーリーのような演出が同氏による魔法の1つとして効果を発揮した。王子様という圧倒的な存在に認められ、それまで報われなかった人生が劇的に変わる物語。西山さんも同じだった。
彼女は、留置場から取調室に呼び出されるときの気持ちを、こう語っている。
「白馬の王子様が馬車で私を迎えに来てくれる。そんな気分だった」
2人の兄へのコンプレックスにさいなまれてきた苦しい人生から救い出した人と、これから取調室で2人きりになれる、という期待に飲食物の提供という「特別扱い」を示すメッセージも加わった。さらに、刑事が西山さんにかけた決定的な“魔法”があった。それは、再審判決でも断罪された「起訴後の被疑者との面会」だった。
「私に『起訴後にも会いに行く』と言ってくれ、本当に来てくれた。何度も。それが大きかった」
次回は、その魔法の効果と日本式の取り調べに潜む「官製グルーミング」によって被害者の心理に生じるダメージのメカニズムを読み解く。