コロナ禍によってeコマースで買い物をする人が増え、実店舗を過去の遺物のように見る向きもある。だが、カナダ発の人気ファッションブランド「Aritzia(アリツィア)」ではいまも、ウェブより実店舗での売り上げが大きい。その秘密は、実店舗にしか提供できない「体験」にあるのかもしれない。
おしゃれなネイビー・ブルーのスーツとスカーフで決めたブライアン・ヒル(62)は、カナダのバンクーバー中心部にあるアリツィア本社の1000m2を超える広大な食堂の隅でいつもの席に腰かけた。バリスタがスタッフに特注ドリンクを注いで回り、ベテランの寿司職人は新鮮なキングサーモンと本マグロを切り分けている。その後ろの床から天井まである大きな窓からは、雪を頂いたノースショア山脈を背景にしたブリティッシュ・コロンビアの息をのむほど美しい景色が見える。
このスペースは、アリツィアの壮大なビジョンの一環として、会長であるヒルが自ら設計したものだ。カナダ出身の起業家である彼はこの39年、ジャンプスーツの無駄のないシルエットから、しゃれた店舗のキャッシュ・レジスターの置き方まで、細部に至るこだわりを発揮してきた。現在、アリツィアの“ブティック”(ヒルは店舗と呼ぶのを好まない)はカナダと、アラスカ州を除く米国で115店を数え、プロが仕立てたプログラム・パンツ(148ドル)や、メーガン・マークルも着たことのある328ドルのウールのコクーン・コートなどを販売している。目指しているのは「手が届く価格」で「日常にラグジュアリー感」をもたらすことだという。
アリツィアの店の立地は一つひとつ慎重に選ばれ、建築家とデザイナーの集団によってインテリアが緻密に決められる。ディスプレーは社員である大工が担当。開店すると、顧客ごとにパーソナル・スタイリストがついて対応する。試着室にはあえて鏡を置かないので、客は試着室に閉じこもっていられない。店によっては無料のコーヒー・バーが用意されていたり、アルコールを提供したりもする。「小売店は単に販売するだけの場所ではないということなんですよ。売るだけならオンラインでだってできる。店は体験を提供する場でなくては」(ヒル)
1984年創業のアリツィアは「40年という短期間で成功した」とヒルは言う。ただし、事業が一気に拡大したのは米国での急拡大が追い風となった近年のこと。米国初の店舗がオープンしたのは2007年だが、現在米国内にある47店舗の大半は最近5年ほどでオープンした。米国はいまや、ヒルの事業の半分以上を占めるようになっている。
アリツィアがオンライン・ストアをオープンしたのは12年のことだが、カナダ、米国ともに売り上げはいまも実店舗がオンラインを上回っている。23年2月までの会計年度では実店舗での売り上げが全体で53%増と飛躍的に伸び、16億ドルの売り上げの65%を占めた。もちろんオンライン事業も順調で、昨年は36%増を記録。売り上げに占める割合は今後数年で現在の35%から45%ほどになる見通しだ。
ヒルによる実店舗重視の姿勢がどこからきているのかは容易に説明がつく。カナダで最大かつ最古の小売流通企業ハドソン・ベイ・カンパニーの幹部を務めたアイルランド移民の祖父は、45年にバンクーバーの衣料品店を買収した。それを継いだヒルの父親は兄弟と共に自ら「ヒルズ・オブ・ケリスデール」というデパートを開業。ヒルもそこで働いた。