やってみて驚いたのは、雑念(妄想と呼ぶ)が雲のようにもくもくと次から次へと湧いてくることである。先にインターネットに接続すると、ついいろんなものに反応してしまうと書いたが、べつに周囲に反応するものがなく、ただひたすら歩行の感覚に集中しなければならないと心定めていても、雑念は容赦なく湧いてくる。反応するものがなくてもつい反応してしまうのである。つまり自分の心は自分でコントロールできないものであることが非常によくわかった。
それでも、妄想にまみれながら、「離れた」「進んだ」「着いた」「圧」と集中しようと心をそちらに傾けていると、徐々に心のデフォルト状態が変わってくる。雑念はあいかわらず起きているが、雑念が湧いてくる心の泡立ちが静まってくるのだ。
最初は、「こんなことやって本当に瞑想と言えるのだろうか」と疑問に思わないではなかったが、毎日実践し、そして月に1回、1日朝から夕刻まで瞑想し続ける合宿に出かけるようになって半年経ったいま振り返ると、自分の心の状態がそうとうに変わったことに気づかされる。
もちろん、実践しはじめて1年に満たない初心者なので、痛みや悩みが消えるわけではない。ただ、それをことさらに拡大してしまい、苦しいと積極的に思うようなことはなくなった気がする。「嫌なことではあるが、さほど気にならない」という心持ちに移行しつつあるのである。
ヴィパッサナー瞑想法は小説家にどのような効果をもたらすだろうか? まず、ヴィパッサナー瞑想法は、主観と客観の統合を行いつつ進める瞑想法だと個人的に思っている。
持ち上げた足が着くその刹那に、足の裏の感覚に集中し、畳の網目などを感じとっているときは、それはほかならぬ「私」が感じていており、ここは主観と呼ぶべき心の働きがある。そして、それを感じつつ「着いた」とサティを入れた時、それはいくぶん「私」もが客観的な対象となる。ここに主観と客観の統合がある。
僕はフィクションのライターなので、書いているときは妄想を逞しくしている。シーンをまざまざと思い浮かべながら書くのは主観的な感覚に依拠している。と同時に、時間の流れの中で物語全体の運動を意識しながら書いてもいて、ここでは客観性を重視した観察にウェイトが置かれている。なんとなく、小説を書くということと、歩く瞑想は似ているような気がしていて面白い。
*参考文献
『ブッダの瞑想法 ヴィパッサナー瞑想の理論と実践』地橋秀雄著 春秋社
『科学化する仏教 瞑想と心身の近現代』碧海寿広著 角川選書
*グリーンヒル瞑想研究所の地橋秀雄によるヴィパッサナー瞑想法は一部YouTubeで公開されています。
*以下は歩きの瞑想の解説です。