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2023.06.23

グローバル資本主義の現代日本を映す21世紀の伝奇小説「サイケデリック・マウンテン」

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遠くに連なる山々とそれを眺めるように佇む1人の男。そのシルエットと拮抗する赤銅色に近い赤は、朝焼けの空を思わせる。もしそうなら、その表紙のカバー・デザインが意味するところは、不吉の前兆とも受け取れる。

榎本憲男の「サイケデリック・マウンテン」(早川書房刊)は、その装丁のビジュアルからして、とんでもない何かを予感させる。そしてその予感は、やがて予想を遥かに上回る現実となって、読者の前に立ち現れる。

テーマは「国家存亡の危機」

舞台はいまからそう遠くない未来、またはパラレルワールドの日本だ。半島から飛来するミサイルが排他的経済水域に次々落下し、不安をつのらせる世論を背景に、保守党は自衛隊を自衛軍に格上げすることに成功している。

そして、国家の安全保障全般を総理大臣の直轄で司るNCSC(国家総合安全保障委員会)という全省庁横断的な組織が内閣府内に発足して久しい。

輸出禁止の解除によって武器の開発も活発になり、NCSCの1部門である兵器研究開発セクションでは、超小型のドローンや新型ミサイル、ロボット兵士などの研究が進められている。

厚労省出身の医療技官である井澗紗理奈(いたに・さりな)は、そこで自衛軍の兵士たちをより強くするという課題に取り組んでいる。医学と心理学にまたがる脳科学の専門家である彼女は、戦闘員の能力を内面から高める、いわば武力のソフト面の開発や強化を担当していた。

一方、もう1人の主人公である弓削啓史(ゆげ・ひろし)は、警察庁からNCSCのテロ対策セクションに派遣された東大法学部出身のキャリア官僚である。職務に忠実で、能力も高いが、捜査会議の席上で武士道を持ち出したり、ヘイトデモに罵声を浴びせたりするなど、人一倍の正義感をどこか持て余しているフシがある。
 
ある朝のこと、弓削は普段から好意を抱いている井澗に、相談事を持ちかける。彼女の専門分野の技術で、取り調べ中の犯人から自白を引き出す手助けをして欲しいのだという。しかし、公私混同スレスレのこのやりとりが、やがて彼ら2人の運命を大きく揺るがすことに。それはさらに、国家の存亡を脅かす大事へと発展していく。
 
物語の前提とイントロ部分をさらりと流してみたが、2023年のわが国の現実からさほど遠くない、あまりにリアルな舞台設定に、慄きをおぼえる読者もあるかもしれない。

北朝鮮の威嚇行動やカルト宗教の暴走に脅かされ、働けど働けど豊かさを実感できない現状をただ傍観するしかない作品中の国民は、言うまでもなく明日の、いや今日のわれわれ自身だろう。

テーマが「国家存亡の危機」とくれば、映画や小説によくあるスケールの大きなポリティカル・フィクションを思い浮かべる向きもあろう。しかし、真の危機は知らぬ間に音もなく忍び寄ってくる。井澗と弓削が巻き込まれていく変事の糸口は、青山のバーで起きた、ありふれたと言えなくもない殺人事件なのである。

途上国の開発資金調達を先進国との間でコーディネートする国際的な金融マンの鷹栖祐二(たかす・ゆうじ)は、なぜ殺されたのか?犯行直後に逮捕された犯人の三宅は、不穏な行動で世間を騒がせた新興宗教「一真行」の元信者だった。しかし被害者との接点はなく、鷹栖と一真行を結びつける証拠も見当たらなかった。
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文=三橋 曉

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