その後も、翻訳ミステリとの二人三脚で発展の道のりを歩んできたわが国のミステリだが、昨年、日本推理作家協会(MWJ)は、国境を越えたミステリの未来を見据え、その年最高の作品に贈る栄誉である「日本推理作家協会賞」に、「翻訳小説部門」を新設した。
賞の正式なスタートは2025年だが、それに先駆けて2年にわたるプレ実施が始まり、初回にあたる今年の選考結果が、すでに発表になっている。
記念すべき最初の受賞作は、ニクラス・ナット・オ・ダーグの『1794』と『1795』(ヘレンハルメ美穂訳、小学館文庫)に決まった。
作者は北欧スウェーデン生まれの新鋭で、由緒ある貴族の血をひき、雑誌の編集長やフリーの著述家という経歴を持つ。『1794』と『1795』は、タイトルからも察せられるように18世紀末の物語で、作者の母国を舞台としている。話は1794年1月、癲狂院に送られた青年の回想で幕をあける。
フランス革命直後のスウェーデン
領主の家系に次男坊として生まれたエリック・トレー・ローソルは、優秀な長男と較べられ、世間や父親に軽んじられながら、つらい少年時代を過ごした。青年となり、厄介払い同然にカリブ海に浮かぶ植民地の島に追いやられるが、そこでの体験が彼の運命を狂わせていく。腹にいちもつある農場主ティコ・セートンに誤った自信を植え付けられた彼は、兄と父が相次ぎ他界すると、トレー・ローソル家の当主となるため帰国する。
母国に戻った早々、彼の帰りを待ち侘びていた相思相愛の許婚者リネーアとの間で婚礼の宴が催されることになった。しかしその晩、後見人を務めたセートンの奸計により、幸福の絶頂にあった彼の人生は暗転してしまう。
一夜明けると、初夜の記憶は丸々欠落しており、何も思い出すことができなかった。戸惑いと焦燥のなか、彼は情けない声で、周囲にこう問いかける。「いったいなにが起きたんですか?」と。
『1794』(2019年)と『1795』(2021年)の2作は、原著の刊行年にも2年の隔たりがあり、それぞれが独立した作品だが、1つの大きな物語の前・後編ともいえる。
でっちあげで精神疾患の烙印を押された青年の転落のエピソードに導かれるように、両作に先立つ『1793』(2017年)でおなじみの面々やその係累が再び登場し、この激動のトリロジーは新たな局面へと突き進んでいく。
彼の国の歴史に疎いわれわれには、18世紀末のスウェーデンがどういう状況に置かれていたかなど、正直知るよしもない。しかし作者は、実にわかり易い補助線を用意している。それは、誰もが教室で学んだことがあるに違いないフランス革命である。
ご存じのように1789年のパリで、国王の圧政と特権階級の放漫に業を煮やした市民が蜂起した。バスチーユ監獄襲撃を端緒に憲法を制定し、ブルボン絶対王政を廃止に追い込んだ革命の波は、世界を揺るがす歴史の大きなうねりとなっていく。
その影響は欧州各国に飛び火し、変革に伴う政情不安の暗雲は、当時浅からぬ関係にあったスカンジナビア半島の王国スウェーデンにも及んだ。マリー・アントワネット処刑の話題が庶民の口端にのぼり、貴族階級を暗澹とさせるなか、王位を継承したグスタフ4世がまだ少年であったことから、政府内には陰謀が渦巻き、内政は混乱を極めていく。
世紀末のトリロジーともいうべきニクラス・ナット・オ・ダーグの3作品の背景に広がるのは、この国全体が疑心暗鬼に駆られ、迷走していた、そんなスウェーデン社会の暗黒時代である。