司馬遼太郎をガイドしたモンゴル女性
こうした草原での出来事については、いまから半世紀前にモンゴルを訪ねた前出の司馬遼太郎も経験している。当時はモンゴルがソ連の衛生国とされていた時代で、その影響を政治や社会、文化の各方面で大きく受けていたのだが、司馬はこんなことを書いている。「おどろいたな」
「なにが?」
「モンゴル人が野菜を食べるなんて」
(『街道をゆく5 モンゴル紀行』より)
司馬がモンゴルを初めて訪ねたのは1973年8月。当時、彼はモンゴル人のような遊牧民は野菜なんて食べない、食べるなんて堕落だなどと冗談めかして書いている。だが、ソ連によって近代化されたモンゴルでは、草原の一部が耕地となり、野菜が栽培され、当時からレストランではサラダを食べていたのである。
ここで「なにが?」と応じているのは、司馬のモンゴル訪問時の日本語ガイドを務めたバルダンギーン・ツェベグマさんだ。彼女は1924年(大正13年)生まれで、司馬より1つ年下。このモンゴル女性の数奇な人生の片鱗は、司馬の『モンゴル紀行』でも随所に語られている。詳細は1990年の司馬の2回目のモンゴル訪問ののちに書かれた『草原の記』(1992年)で披露されている。
そのツェベグマさんの娘のイミナさんが経営するテレルジ国立公園のゲルリゾート「ツェベグマキャンプ」を訪ねた。
広々とした敷地内にはバーニャ(ロシア風サウナ)もある快適なリゾートで、レストランには司馬遼太郎とツェベグマさんがウランバートルのホテルで会話している場面や彼女の一族の古い写真などが展示されていた。
興味深かったのは、このレストランのバイキングメニューに黒パンなどロシア風メニューが多かったことだ。理由を聞くと、ツェベグマさんの一族がもともとブリヤート人(古くからモンゴル北方のロシア領内に住み、文化的にはロシア化が進んだモンゴル人)だったからと教えられたが、1つの疑問が頭から離れなった。
なぜなら司馬の『モンゴル紀行』では、彼女の故郷は旧満洲のハイラル付近(現在の中国内モンゴル自治区フルンボイル市ハイラル区)だと書かれていたからだ。
その疑問を解いてくれたのは同じ司馬の『草原の記』だった。
同書によれば、ツェベクマさんの生まれはロシアの現在のブリヤート共和国のバイカル湖の近くの村で、ロシア革命後、両親に連れられ、中国のハイラルに逃れたという。その後、1932年に満洲国の建国が始まった。そこで彼女は日本式の教育を受けることになるが、結局13年後の1945年8月に満洲国は瓦解する。
中華人民共和国成立後、彼女はハイラルで教師を務めるが、その頃知り合ったモンゴル族(中国での呼称)の男性と結婚。日本留学経験もあるご主人は、その後フフホトの大学に赴任することになり、ハイラルで生まれた娘と一家で移り住んだが、今度は1957年に毛沢東が発動した「反右派闘争」によって当局に拘束され、行方不明となる。日本留学が災いしたのだった。
「日本語を覚えたことで、どうしてこんなひどい目に遭うのか」と身の不運をのろいもしたが、司馬のいう「騎馬民族の末裔」である彼女は、1959年12月、幼い娘を連れて中国と訣別するべくソ連経由でモンゴルに亡命する。「イミナの命だけは守ろうとおもった」と彼女は述懐している。
ツェベクマさんが日本語や中国語、ロシア語、モンゴル語を話すのは、こうした数奇で壮絶な人生があったからだ。『草原の記』で語られる満洲国時代の日本人恩師の話を語るくだりには胸を打たれた。
また、文化大革命が終わり、名誉回復されたご主人が、改革開放が始まっていた1985年に彼女と娘に会いにウランバートルを訪ねた。しかし数カ月後にご主人はその地で息をひきとってしまう。その結末には泣かされた。26年ぶりの再会だったが、彼女は「夫が自分のもとで死ぬためにここまできた」ことに気づいたというのだ。