アジア

2023.06.21 20:00

50年前にモンゴルを訪ねた司馬遼太郎が語る天然ハーブの草原

ゲルリゾートの目の前に淡い紫色のマツムシソウが咲いていた

中国内モンゴル自治区の現在

筆者はこれまで何度かツェベクマさんが住んでいたハイラルを訪ねたことがある。
 
現在のハイラルは、モンゴル国の東方、中国内モンゴル自治区東北部に広がるフルンボイル平原の中心都市で、この国におけるほとんど唯一残された草原観光の基点となっていて、夏には多くの国内からの観光客が訪れている。ただし、残念ながら、フルンボイル平原は河川に近い一部のオアシスを除き、モンゴル高原に比べると無残なまでに草原は疲弊している。
 
気候変動で雨が少ないせいだと地元の人間は話すが、同じ7月に訪ねたときも、草の丈は短く、地に張りつくような様子で、草もキツネ色をしていた。
 
もとよりモンゴル高原とフルンボイル平原は気候風土が違うので、比べても仕方がないと言えなくもないが、モンゴルに比べるとはるかに整備された自動車道が張りめぐらされ、花回廊のような観光用の花畑が造園されていた。
 
なだらかな丘陵の上を風力発電のタービンがそこかしこに林立しており、モンゴル人の故地も中国化することでこれほど景色が変わるのかと、今回初めてモンゴル国を訪ねて、あらためて思い返したものだ。
 
一方、ツェベクマさんの話でもわかるように、ハイラルにはかつて多くの日本人が住んでおり、1990年代後半くらいまでは、元住民や遺族による望郷ツアーも行われていた。
 
筆者が最後にハイラルを訪れたのは2016年夏のことだが、旧日本人学校の校舎の一部や当時日本人が満洲各地に建てた神社の1つであるハイラル神社の本殿の敷地内にあった手水舎が残っていた。
 
そして、この地を訪れた人が必ず訪ねるのが「世界反ファシスト戦争ハイラル紀念園」という仰々しい名称が付けられた愛国主義教育施設である。ここは満洲国時代に対ソ戦に備えて日本軍がハイラル市北部に構築した大規模な要塞の跡地を整備して公開しているものだ。
 
要塞の内部はひんやりとして、天井から水が滴る約80年前当時のコンクリート建築が生々しく、その悲痛な歴史を物語っている。ソ連軍の侵攻で多くの日本人が命を落としたことは、ツェベクマさんも証言しているとおりである。
advertisement

ハイラル要塞の内部は約80年前当時の司令部ほか日本軍の施設が再現されている

ハイラル要塞の内部は約80年前当時の司令部ほか日本軍の施設が再現されている


さらに言えば、フルンボイルの南方約200キロのモンゴル国境には、1939年夏に満洲国とモンゴル人民共和国の国境紛争の舞台となったノモンハンがある。現在の中国側は平らな草原がどこまでも続く静かな国境にすぎず、当時の歴史を物語るのは、2007年に開館されたノモンハン陳列館と呼ばれるささやかな展示施設のみである(現在は閉館中)。

現在のノモンハン事変の舞台は、中国側ではモンゴル国との広い緩衝地帯の草原が立ち入り禁止となっている

現在のノモンハン事変の舞台は、中国側ではモンゴル国との広い緩衝地帯の草原が立ち入り禁止となっている


一方、前回筆者に現地のヒップホップ事情を教えてくれた大西夏奈子さんは、2019年にモンゴル側からノモンハンを訪ねており、当地にある戦勝博物館には当時の日本兵の遺品などが展示されていたという。詳しくは彼女が運営するウエブサイト「モンゴルのぞき見」を読んでいただきたい。

初めてのモンゴル国訪問で、筆者は美しい草原に癒されながらも、地続きの中国内モンゴルとのさまざまな違いを知ることになった。草原の歴史はまだ語るべきことが多い。

文=中村正人 写真=中村正人、佐藤憲一 取材協力=(株)ジャパン・エア・トラベル・マーケティング

advertisement

ForbesBrandVoice

人気記事


advertisement