第10回のゲストは福島県いわき市の内田広之市長。12年前の東日本大震災で大きな被害を受けたいわき市はいま、新たな産業として風力発電事業に注目し、国内唯一の人材育成制度の構築を進めている。そこには、これまでいわき市が歩んできた歴史と切り離せない物語があった。
炭鉱の街から大転換 東北人の粘り強さ
クレイ勇輝(以下、クレイ) 福島県は東日本大震災を契機に「原子力に依存しない、安全・安心で持続的に発展可能な社会づくり」という理念を掲げ、再生可能エネルギー先駆けの地となる取り組みを行っています。中でも、いわき市は風力発電を地域の新たな産業基盤とし、風力発電の集積地を目指していると聞きました。内田広之市長(以下、内田) 実は、いわき市は風力発電に取り組む前からエネルギーと切っても切れない街なんです。江戸時代の終わりに石城(いわき)郡大森村に生まれた片寄平蔵さんという人が郡内の弥勒沢で、日本で初めて石炭を発掘しました。ここから本州最大の常磐炭鉱が拓けていき、いわき市と北茨城市をまたぐ常磐炭鉱は明治時代の日本の近代化を支え、日清・日露戦争のための資源を産出しました。
ところが第二次大戦後の1962年、政府が安価で安定供給が可能となった石油へとエネルギー政策の大転換を行う「エネルギー革命」に踏み切り、全国の炭鉱が閉山することになるんです。
クレイ その時、常磐炭鉱の労働者やその家族の雇用創出のために生まれたのが「常磐ハワイアンセンター」──いまの「スパリゾートハワイアンズ」なんですね。2006年公開の映画『フラガール』の舞台として描かれていましたね。社員を守るためとはいえ、炭鉱からリゾート施設への切り換えた決断はすごいと思いました。
内田 当時「温泉施設なんてそんな馬鹿なことを」という声が挙がったでしょうし、炭鉱の閉鎖でまちは沈んだと思います。でも「ハワイアンズ」の人たちが街を盛り上げ、そこから東北ナンバー1の工業都市にまでしてくれたんです。いまのいわき市があるのは、そういったまちのためにやり遂げた人たちのおかげです。根っこに、東北の人、いわきの人の粘り強さがあったと思います。
クレイ その強さは東日本大震災の際にも感じられましたか?
内田 私は高校卒業までいわきで育って、文部科学省に入ってからの25年間は、外からいわき市を見ていました。震災が起きた時は霞が関にいたため、中央省庁にいるいわき市出身者や市からの出向者の中で賛同する人を募っていわき市を応援する活動をしたのですが、復興に取り組む人たちの姿を目の当たりにしてその強さを感じました。
クレイ 内田市長がいわき市と向き合うきっかけは、何だったのでしょうか。
内田 やはり、ひとつは東日本大震災があります。いわき市では468名の方がお亡くなりになりました。また原発事故による影響は、農作物や水産物だけでなく、市内で製造された工業製品にまで及び、残留放射線の測定で基準値を下回ったとしても製品の納入が敬遠されるほど当時の風評被害は深刻でした。
もうひとつ、2019年の台風19号では14名の方が亡くなられました。この時に自分が培った経験をいわき市に活かしたいと思うようになったのです。
いわき市を車で走っても震災の爪痕は感じられないと思います。それはいわきの人たちが我慢強く、時間をかけて乗り越えたからです。人の強さはこの街の大きな財産だと感じました。
クレイ 炭鉱の繁栄と衰退、そして風力発電へといわき市は何度も大転換を経験してきたんですね。