丹後で考えた「中庸の究極」と英ジェントルマン文化の共通点

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20世紀前半にはじまった大量生産の自動車工場にあるような、人が歯車のシステムでは機械は人を虐げるとみられました(ぼく自身、自動車メーカーの新人研修で2か月間、工場の生産ラインで働いたとき、チャップリンの映画『モダン・タイムス』はよく描かれていたと実感したものです)。

しかし、丹後において人は機械の一部になっていません。かといって手織りでもないです。産業革命は英国の繊維産業からスタートしましたが、もしかしたら、こういう風景が産業革命の原初イメージなのでは、と想像させてくれるような気がしました。そこでは、働く人たちが機械を操っています。

それだけでなく、パートの女性たちが生き生きと働いている。兼業であるのが自然な姿に思える。そういうサイズの産業風景がここにはある。

そこで、一つの仕事だけに昼間の時間の大半を使うという設定自体に無理があるのだと気づいたのです。また、「単純作業」「肉体労働」とカテゴライズされ、それらが「知的労働」の下位にあるかのように語られますが、この上下関係そのものが人の思い上がりではないだろうかとも思い始めました。

フラットにみるべきではないか。つまり「人間の価値は知性にある」と長らく不動の地位を占めていた考え方には限界があるのでは、と。

普段知的な仕事をしている人が、農作業や陶芸に励むと「素敵な生活」と言われる。他方、農家の女性が機織りの作業をすると「衰退産業の姿」と見られる。これは、我々がそうとうに歪な世界観に侵されている証拠だと思います。だから、AIの普及で人の存在が小さくなり、行動できる範囲が狭くなるとの恐怖にさいなまれる羽目になるのです。人のあり方を自分で知的な存在であると矮小化することで自らの首を絞めている。

丹後ちりめん(Getty Images)

丹後ちりめん(Getty Images)


丹後で人々の生活をみるなかで思い浮かんだのが「弱い産業革命」のモデルとしての丹後です。誤解を避けるためにあえて書いておきますが、丹後が桃源郷であると言っているのではありません。たまたまいろいろな歴史的な推移のなかで、20世紀的な産業革命以前の風景が幸か不幸か生きているのです。

繊維産業が強いイタリアの人たちに、丹後の工場の写真をみせると、手作業プロセスを重視するイタリアの人でさえ驚きます。「このような機械がまだ使われているのか!」と。

徹底した手作業でも徹底した機械生産でもない。このポジションにあることが、逆にラディカルなのです。どれだけの手作業と機械作業があるかと量的な測定をする中庸ではなく、「質的な中庸」を狙うとはどういうことか? これを丹後の滞在以降、ぼくは考え始めました。
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文=安西洋之・中野香織

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