公共放送がその一助になればと思い「伝え続けたい」と上申しましたが、なかなか思うような結果は得られませんでした。
取材に出るたびに「どうして伝えてくれないんですか?」と言われ、局では先輩に「今は上司の靴の先を舐めてでも耐えてもっと偉くなれ」と諭されました。報道局長の部屋を訪ね「メディアへの不信感が高まっています」と詰め寄ると「メディア不信なんてどこにあるんだ」と言い返されたので、部屋の外に響くほどの大声で言い合いになったこともあります。
「伝え続けたい」と、かろうじて確保していたTwitterを使って、現場で出会った様々な声を伝えました。ほどなくして「政治家から堀のTwitterをやめさせろと圧力がかかった」と直属の上司から呼び出されました。「闘いましょう」と返したら「そうではないんだ。閉じてくれ」と言うので抵抗しました。
ここに書いたような一連の出来事は外には漏らしませんでしたが、なんとなく異変を感じたのか、SNSの様子を見守っていた色々な人たちが慮りの言葉を様々寄せてくれました。
「発信は止められない」と思い、退職を申し出た2011年の秋頃、坂本さんからメッセージが届きましたね。声をあげてしまうほど驚きました。
負けるな、声をあげよう、諦めるなといった、勇ましい言葉は一つもなかった。ただただ、僕の心と身体を想い「いつでもSOSを出すんだよ、隣にいるから」という優しい言葉が並んでいました。
僕はそこで壊れずに済みました。癒されながら、声を上げられたのです。坂本さんと話をしているときは優しい気持ちになることができました。
ずっと応援して下さっている恩人の1人。「ちゃんと寝るんだよ」と、最後にハグしながら言葉をかけてくれた。僕はまだまだ寝ません。やること一杯あります。でも、そんな温かい眼差しに支えられなんとかやってこれました。感謝を。 pic.twitter.com/Xtf6wFX0fv
— 堀 潤 JUN HORI (@8bit_HORIJUN) March 9, 2014
坂本さんの音楽から学んだこと
坂本さんとの交流がそこから始まりました。 坂本さんが亡くなって、坂本さんに支えられたという人の声があちらこちらから聞こえてきます。国境も、人種も、職業 も、ボーダーを超えてその声が広がり続けています。世界の多様性を知り、そこに生きる人々の温もりや、自然と文明への畏敬と言うものに最初に触れるきっかけをくれたのは、坂本龍一さんです。
1989年、私が12歳の時にアルバム「BEAUTY」が発表されました。母はピアノの教師をしていて家には音楽が溢れていました。 「戦場のメリークリスマス」、「ラストエンペラー」を映画館で見たのか、それともテレビで見たのか記憶が曖昧で覚えていませんが、坂本さんの音楽に魅せられていた記憶ははっきりと残っています。
戦争と政治、民族の対立、アジアの中の日本、日本からは見えないアジアの存在。言語化はできませんでしたが、坂本さんの音楽が初めて目にする、耳にする世界に誘ってくれました。その坂本さんが新しいアルバムを出すというのを知り、どうしてもそのCDが欲しくなりました。家にKENWOOD のステレオが届いたばかりで、この大きなスピーカーで毎日坂本さんの音楽を聴くことができたらどんなにワクワクするだろうかと期待が膨らんではち切れそうでした。