2人は握手した。デヴィッドより6センチほど背の低い龍一は、畏敬の念の混じった沈黙とともに彼を見上げた。
龍一は私に、俳優を務めることには不安を感じるし、自分はいい俳優ではないと思っていると話してくれた。私はもちろん同意できない。それどころか彼は、内面で苦悩する、強烈に厳格な軍人、ヨノイ大尉を見事に演じた。龍一は大島監督にこの映画のテーマ曲の作曲もやらせてもらえないかと持ちかけ、大島はもちろん頼むと言った。もし、大島が何らかの理由で龍一にテーマ曲を任せていなかったら、彼がこの映画への出演を引き受けたかどうかは疑問だと思う。
吉永小百合とのイベントも
映画のクランクアップ後も私は龍一と東京で時々会っていた。彼がニューヨークに移ってからは会う機会が減ったものの彼の帰国の際に会うこともあったし、今世紀に入ってからの10年間は、メールでやりとりをし合っていた。そして2011年10月22日、私は彼と俳優の吉永小百合さんのイベントに参加するため、オックスフォードに向かっていた。イベントは13世紀末に設立されたオックスフォード大学ハートフォード・カレッジの、よく手入れされた芝生と蔦に覆われた壁で切り取られた美しい四角形の一角にあるホールで、開催されたのだった。
東北地方を襲った大地震や大津波、そして原発事故から半年余り経って、吉永小百合さんと龍一は、原発の危険性についての意識を喚起するパフォーマンスを行うことを決めたのだった。2人は、1945年8月に広島と長崎に投下された原子爆弾によるホロコーストと原発事故を関連させた。吉永さんは原発事故の犠牲者の詩を読み、龍一はピアノで『戦場のメリークリスマス』から「禁色」を演奏した。NHKのテレビクルーが撮影に来ていた。
「原子力発電が平和的であると考えるのは完全なる誤解だ。福島で起こったことは広島や長崎の人たちが経験したことと同じだ。今回が、日本人が自らの手で引き起こしたことであることを除いては」。コンサート後、龍一は私にこう話した。
龍一は、音楽への愛と、時代のもっとも重要なテーマと自らが感じていた「人間による自然環境の破壊」と献身的に戦うこと、その2つを融け合わせて活動したアクティビストであった。2011年3月11日に発生した東日本大震災と、伴って起きた放射能汚染、環境破壊の犠牲となった東北地方の沿岸部を訪れ、音楽活動を行っていた。
彼はアフリカの砂漠からグリーンランドの氷床までを旅した。そして砂を抱く風の音や、木から落ちる枯葉の音に耳をかたむけた。斜面を滑る石や氷の下の水の流れの音に耳を澄ませ、それらを自分の音楽に取り込んだ。──意識的にしろ、無意識にしろ。
そんな彼が、私が2016年に撮影した映画『STAR SAND-星砂物語-』の主題曲を作曲すると言ってくれた時には感激した。映画の舞台は沖縄の小さな島だったが、龍一は内地で沖縄音楽が流行するずっと前から沖縄の音楽を愛していた。音楽家としてのキャリアの初期の頃にもアジアの音楽文化に強い関心を向けていた。1970年代から80年代にかけて、日本の若いクリエイターの多くがヨーロッパやアメリカに目を向けていた時期に、である(彼は『戦場のメリークリスマス』の音楽にもインドネシアのガムラン音楽を取り入れていた)。
私の親友、坂本龍一は心優しくまったく気取らない人物で、献身的な父親だった。彼は日本人の音楽に対する見方を変えた。そして彼自身が、「日本発、世界へ」のギフトだった。彼のような人こそまさに「余人をもって代えがたい」のである。
2011年12月、都立新宿高校のインタビューで、龍一は次のように話している。
「旅をして、自分と自分の属している社会を外から見る目を養ってほしい。それは地理的な外、という意味でもありますし、同時に時間的な外でもあります。過去を知って今を知る、あるいは未来の事を考えて現在を知る」
<英語原文は次ページに>
ロジャー・パルバース(Roger Pulvers)◎1944年アメリカ・ニューヨーク市生まれ。東京工業大学名誉教授。カリフォルニア大学ロサンジェルス校(UCLA)卒業後、ハーバード大学大学院で修士号取得。67年来日。京都産業大学、オーストラリア国立大学で教鞭をとる。82年『戦場のメリークリスマス』助監督を務めたのを機に再来日。『STAR SAND―星砂物語』で初監督を務める。第18回宮沢賢治賞、第19回野間文芸翻訳賞受賞、第9回井上靖賞受賞。2018年旭日中綬章受章。『こんにちは、ユダヤ人です』『賢治から、あなたへ 世界のすべてはつながっている』『日本ひとめぼれ』『もし、日本という国がなかったら』など著書多数。