広大なロシアのはずれの一地方に過ぎないとはいうものの、周辺のアジアの国々に比べ圧倒的に異なるロシア文化の存在や、とりわけグルメの分野では、ロシア料理とともに、ジョージア料理や中央アジア料理など、日本からみれば、ユーラシアのゲートウェイともいえる豊かな食文化があり、極東ロシアの有する生活文化の魅力が多くの日本人の心をつかんだのだと思う。
ロシアの民間の人々とのつきあいは、とても楽しいものだった。彼らはソ連崩壊以降のさまざまな経緯もあり、日本人に対して好意的な姿勢で接してくれたからだ。筆者もその気持ちにできる限り応えようとしてきたのである。
それだけではない。もともと極東ロシアには多くのウクライナ系住民がいることを知った。それは1903年7月のシベリア鉄道開通前には、黒海のオデッサとウラジオストクに定期航路があり、多くのウクライナ人が極東に渡って来ていたという歴史があったからである。
実際、現地で知り合った人たちの中に、ルーツをたどれば、ウクライナ系の人たちが多いことは、本人たちの口からもよく聞いていた。それは日々の暮らしにとってなんら障害になることではなく、むしろウクライナ系の人たちは、自らの文化的な特質を好ましく体現しており、とても魅力的に見えた。
それはこの地に住む人たちにとって自明のことだった。だから、彼らと話している限り、なぜロシアとウクライナが戦争をしなければならないのか、まったく説明のつかないことだったのである。
つまり、ロシアに暮らす多くの人たちにとっても、今日の事態が起こることなど想像もしていなかったのだ。
それが現実のものとなり、それゆえ自分の暮らす土地を逃れざるを得なくなったという糸沢一家のウクライナをめぐる話は、筆者にとってあまりに重すぎるものだった。
ただ自分にできるのは、彼が語る言葉の背後にあるものをできる限り想像すること、そしてささやかながらメッセンジャーとしての役割を果たすことくらいしか、思いつかなかった。
彼には大学生の姉と高校生の弟というふたりの子供がいる。成人するまでの20年間、ウクライナ、日本、ポーランドと移り住んできた姉は、ウクライナ語やロシア語、ポーランド語、英語、ドイツ語、日本語などを駆使することから、現地の教会で避難民の生活を支えるボランティア活動の日々を送っているという。
一方、弟は同年代のポーランド人と一緒に高校に通っているのだが、ロシア軍の侵攻を容認しているベラルーシと国境を接していることから、すでにこの世代の生徒に対しても、政府から兵役の意思を確認するための使節が来るのだという。ウクライナ生まれのふたりは現在日本国籍だが、弟の同級生たちのこれからの境遇を思うと、息子自身もそうだろうが、糸沢さんも複雑で陰鬱な気持ちになるという。