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2023.03.14

『おやじはニーチェ』 年老いた親との会話に哲学が応用できる理由

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「介護」をテーマにしたエッセイ『おやじはニーチェ―認知症の父と過ごした436日―』(髙橋秀実著、新潮社刊)が、刊行後たちまち重版の売れ行きだ。読みながら、介護という人生の課題について考えてみた。


「人生100年時代」という言葉が高らかに宣言されている現代社会では、避けて通れない問題が存在する。それは介護の問題だ。

多くの人が、まずは介護される側ではなく介護する側として問題に対峙しなければならないだろう。現時点で既に仕事の傍ら、両親などの介護に直面している人もいるはずだ。

筆者もこの数年間、祖母の介護に関わっていた。以前は健康そのものだったのだが、ある冬の朝に脳梗塞を発症して半身の自由が利かなくなったのをきっかけに、日常の多くを他人に助けられなければ生きられなくなってしまった。90歳になってなお頑丈だった認知機能も徐々に退行し、筆者のこともすっかり忘れてしまっているようである。

今では介護施設の職員の方々など、周囲の人の手を借りて気楽に向き合えているが、当初は文字通り途方に暮れた心持ちだった。施設の選定やケアマネージャーとの緊密な連絡といった課題が突然積み上がってしまったことによるストレスも当然ながら、何より問題だったのは筆者自身の気の持ちようだった。家庭の事情もあって主に祖母の手で育てられてきた筆者にとって、目に見える速度で衰えていく彼女の姿は想像以上の悲しみを呼んだ。覚悟を決めていたつもりだったが、現実はそれほど簡単ではなかった。

そういった経験を踏まえて、介護の問題とはもちろん労力の問題でもあるのだが、それ以上に要介護者を見守る周囲の、心の問題であると筆者は考えている。

「だからここってどこだ?」


おやじはニーチェ―認知症の父と過ごした436日―」は介護する者が抱える苦悩を癒やす可能性を大きく秘めている一冊だ。

著者である髙橋秀実氏はテレビドラマ化もされたノンフィクション『「弱くても勝てます」 開成高校野球部のセオリー』など数々の著書を世に送り出している熟練のノンフィクション・ライターだ。本書はそんな著者が仕事を中断し、自宅介護を通して父、亡き妻や息子の存在すら忘れてしまった父と真剣に向き合った日々を記録した体験記である。

タイトルからも察せられるとおり、本書の内容には哲学が密接に絡んでいる。引用されるのはニーチェだけではなくハイデガーやサルトル、アリストテレスやウィトゲンシュタイン、西田幾多郎に至るまで有名な哲学者が勢揃いするかのような勢いだ。

ただ、哲学的な思想が多く含まれているからといって決して読むのに苦労するものではない。文章自体は軽快かつユーモラスで、少し難解と思われる引用部については著者による注釈が挿入されており、読解の助けになってくれる。哲学を学ぶというよりは、様々な考え方や解釈の仕方を知るきっかけになるはずだ。そしてそれこそが、介護への向き合い方を気楽にしてくれるかもしれない。

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例えば本書で著者は父に「ここはどこか?」と問う場面がある。これは認知症の進行度合いを確認するための質問であるそうだ。そこで親子が繰り広げる会話を以下に引用する。

──ところでさ、俺たちが今いるところはどこ?

(中略)

「どこが?」

父はそう問い返した。

──どこがって、ここが。

私は床を指差した。

「ここがどこかって?」

──そう、ここはどこ?

「どこが?」

──ここが。

「どこ?」

──いや、だからここ。

「だからここってどこだ?」

──だからここじゃなくて、ここ。

「どこ?」

──ここ。

「ここってどこだ?」

……第三者として読むと随分とぼけていて、禅問答めいたやりとりだ。しかし実体験を通し、このような会話が一度きりではなく、介護の中で日常茶飯事として積み重なると知っていると、あまり笑えなくなってしまう。ましてその相手がかつて自分を育ててくれた両親となれば、言いようのない寂しさすら込み上げてくるだろう。
次ページ > 認知症患者に哲学を応用するわけとは

文=松尾優人 編集=石井節子

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