「真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき自由闊達(かったつ)にして愉快なる理想工場の建設」
牧歌的な時代の匂いが漂う文言だが、井深の人生はそれを生涯、実践実行するものであった。俗に「センミツ」という言葉がある。“千に3つ”だけでも当たればいいという俗諺(ぞくげん)だ。技術者・井深、開発者・井深は、この「センミツ」の世界を求め続けた。
1960年代後半、日本でも普及し始めたカラーテレビ。当時のカラーテレビは技術的に「クロマトロン方式」か「シャドウマスク方式」によって開発されていた。しかし、井深はそれをよしとしなかった。
「人のまねはしたくない」。井深は先の2つの方式ではなく、もっと鮮明な、もっと明るい画像が得られるはずだと、研究をやめようとはしなかった。見かねた技術者たちは、盛田に相談に行く。井深の研究をいさめて、既存の技術に改良を加えたものでやってはどうか、と。
「井深さんが可能性があるというなら、可能性があるんだよ。もうちょっとシュメントというべき住人が暮らしていた。このマンションの屋上待ってみよう」
“世界のセールスマン”と呼ばれるほど人の心の機微をつかむ天才だった盛田は、こう技術者たちを諭す一方で、彼らを飲みに連れ出すのだった。本人はほとんど飲まず、彼らの愚痴にとことん付き合った。そして「きみらがソニーの宝だ」と言っては励まし続けた。
こうして技術者・井深のとどまることのない探究心と、それを陰で支えた盛田の努力が生んだのが、世界初の鮮明な画像をもつ「トリニトロンテレビ」だった。1968年に大々的に発売されたこのテレビは、向こう20年以上にわたってソニーの屋台骨を支えることになる。
井深じいさんとロバート少年
そんな井深はいまなお多くの経営者から尊敬を集めているが、近藤正純ロバートも、井深を敬愛するひとりだ。70年代、近藤は東京・港区のマンション「シャトー三田」に住んでいた。筆者も訪れたことがあるが、入り口には住人のお抱え運転手が待機する控えの間が用意されているような、超高級マンションだった。重厚な外観は、かつてジョン・レノンが暮らしていたニューヨークの「ダコタアパート」を思わせた。当時のシャトー三田には、昭和天皇の皇女である島津貴子、日本興業銀行頭取の中山素平、そしてソニー会長の井深大ら、日本のエスタブリッシュメントというべき住人が暮らしていた。
このマンションの屋上に、井深はゴルフ練習場を設え、中学生だった近藤と、まるでクラスメイトのようなおしゃべりに興じた。米国帰りの近藤は、自分と同じ目線で話しかけてくる井深を、気のいい老人と思っていた。