“安くて速いのが良い“というコスパ至上主義から距離をとり、人と自然が有機的に循環する経済圏を目指す。パンやビールという何気ない暮らしの品から、資本主義の在り方まで変えようと志す二人は、一体どんな人なんだろうか?
発売中の『Forbes JAPAN』2023年3月号の第2特集は、「#バグのすすめ 1mmのズレを楽しむキャリア・働き方論」。
ターニングポイントというほど大げさでもない、日常における些細な変化や出来事を「バグ」と呼び、「人の心にポジティブなバグを仕込んでいきたい」と意気込む企画・編集会社「湯気」とともに、人生にバグを仕込んでいくヒントを探る。
第3回では、鳥取県智頭町のタルマーリー本店に出向き、渡邉夫妻に話を聞いた。
違和感をそのままにせず、道を貫く
「バグと初めて聞いた時、それは違和感のことかも、と思いました」。14年間、タルマーリーの経営・販売・広報を引き受けてきた女将のマリさんは言う。「私もイタルも、少しでも違和感を覚えたらもう次に進めない。パンづくりでも経営でも、小さな違和感を敏感に察知して拾い上げてきたからこそいまがあるんだと思います」。イースト菌のみならず、イタルさんが「うま味の特急券」と呼ぶ卵、牛乳、バター、砂糖を一切使わず、野生の菌の発酵で生まれるパンを進化させてきたタルマーリー。創業の地・千葉から、パンづくりに適したきれいな空気と水を求めて岡山、そして鳥取県智頭町へ。夫妻の共著『菌の声を聴け』の名の通り、ふたりは常に違和感に目をこらし、耳を澄ませながらタルマーリーを変化させてきた。
しかしその道は決して平坦なものではなかった。「初めはふたりの認識が違いました。開業した当初、『この街でいちばんのパン屋になる』というテーマの雑誌取材を受けてイタルはその気になっていたんですが、私は『いや、私たちが目指すのは”パン屋”というカテゴリに限定された世界観ではないんじゃない?』って」。もともと農産物流通会社の同期だった二人。現場で産地偽装などを目の当たりにし、大きなシステムに限界を感じ、「小さくてもほんとうのことがしたい」と始めたのがタルマーリーだった。
ところが、本当にいいものに適正な価格をつけるべき、つくり手に相応の敬意が払われるべき、という強い考え方をもったマリさんと比べると、イタルさんは当初半信半疑だったそうだ。「僕は団地で生まれ育ち、安かろう悪かろうの価値観で生きてきました。どんなに理想を掲げていても、『こんなに高い値段のパンを買ってくれる人が本当にいるのか?』という感覚がなかなか抜けなかった」。イタルさんの価値観が変わっていくには長い年月がかかったそうで、マリさんは「私の考え方をわかってもらうには、結果を出すしかなかった」と振り返る。
マリさんの芯の強さと志がタルマーリーの理念に強度を与え、職人のイタルさんが進む道を遙か先まで照らしてきたのだ。
どっしり構えたマリさんの風格に私たちが尊敬の念を禁じえないでいると、いきなりイタルさんがこんな話を暴露し始めた。「そういえば、僕、結婚したときの持参金が5000円だったんですよ。それでマリに『これ俺の全財産だから、使って』って言ったら、『いやいや、いらない。私に任せて』って」。マリさんは「全然アテにしてなかったです。お金は私が何とかするつもりだったんです」と笑った。タルマーリーの大黒柱は間違いなくこの人ではないか......!