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2022.12.25

命との距離が近い店 弘前のイタリアン「ダ・サスィーノ」の20年

オステリア エノテカ ダ・サスィーノの一皿

今でこそローカル・ガストロノミーは百花繚乱であるが、青森県・弘前市のイタリアン「オステリア エノテカ ダ・サスィーノ」はまちがいなくその先駆けの店の一つである。

2年半のイタリア修業を終えて帰国した2003年に、笹森通彰氏は、地元、弘前に店を構えた。まだ、地方の店などまったく見向きもされなかった時代……「山形のアルケッチャーノ」が取りざたされ始めた頃といえば、時代感が伝わるだろうか。

なぜ、弘前に店を作ったのか? 笹森氏は次のように語る。

「地元愛はもちろんありましたけれど、それより自分で店をやるなら、畑のある実家のある弘前で美味しい野菜やフルーツを育て、それを提供したいという気持ちが強かったんです。地方をどうしようなんていう考えは二の次でした。というのも、イタリアに渡る前に東京でも働きましたが、野菜が美味しくなかったのです。そのとき初めて自分の育った環境がいかに恵まれていたかに気づきました」

オステリア エノテカ ダ・サスィーノ 笹森シェフ

イタリアへ渡ったのは2001年。最初から、農園のついた星つきのレストランを目指したそうだ。

「当時ミシュラン二つ星だったベネト州の『ドラーダ』(現在は一つ星)では、チーズを作り、育てていた鳩をつぶして羽をむしり、おじいちゃんが連れてきた山羊を解体する、そんな働き方をしてきました。まさに目指す姿がそこにあったんですね。一言でいえば、食材という命との距離の近さです」

ドラーダを辞したあとも、休日は肉屋へ行って、シャルキュトリーの修業に励むなど、ずっと、命(食材)と近い日々を過ごしてきた。

2年半の修業も終わりに近づいたころ、ミシュランの星を獲る店のシェフをしてほしいとも言われたが、ビザの問題で就労許可が下りずに断念。まだミシュランが上陸する前の日本でも、仙台や東京で大型のレストランを共同経営しないかなど、話はいくつもあった。

「いくつもの選択肢があったにも関わらず、いずれは弘前に戻ろうと思っていたのを、最初から弘前でやっちゃえ、そんな気になったんですね」と、当時を振り返る。弘前で過ごした幼少期とイタリアでの日々を重ねれば、自明という気もしなくもないが、時代を考えれば英断でもあっただろう。
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文=小松宏子

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