植野:どこに面白さを感じていったのでしょうか。
小寺:私の部署はウォークマンやラジカセ、ヘッドホンなどを扱っていて、商品ごとに企画、設計、生産管理、経営管理などのチームがありました。商品企画、デザイン、マーケティングの人たちと仕事をしながら、自分は経営視点から商品を見られたんですね。入社してすぐこんなチャンスがあったのは幸運でした。
植野:その後、米国へ赴任されました。2000年代になるとアップルなどが台頭しましたが、その動きを現地でじかに見て、脅威に感じましたか?
小寺:他社の音楽配信サービスなどはすごく意識しました。インターネットの成長やネットワークの進化を見ながら、それなりに私たちも奮闘したんです。例えば、音楽とエレクトロニクスの部門でConnectというサービスを一緒に立ち上げて事業を始めたり。でも、なかなかキャッチアップできませんでした。
植野:まだハードの強さを信じていたからですか?
小寺:ソニーはハードだけではなく、さまざまなポートフォリオをもっています。部署間の調整に時間をかけるうちに、スピード感がある会社がどんどん先へ行ってしまったんですね。ネットワーク事業を既存のビジネスの片手間でやるのではダメだと、当時、ソニーの副社長だった平井(※4)がネットワークの事業ユニットとして新会社(※5)をつくる発想につながっていきました。
ソニーグループ常務CDOの小寺 剛
植野:ある種、負けることで学びを得た。新しい会社はどんなスタートでしたか。
小寺:サンノゼにあるエレクトロニクスのオフィスを数人で間借りして始めました。当時の私たちにはハードウェアの付加価値を増す役割を期待されていました。主力のゲーム以外にも、音楽やビデオのサービスも準備して、テレビやタブレット、モバイル端末といったハードの価値を高める使命です。
ゲームがフィジカルディスクからデジタルの販売に移る時期で、時代もいいタイミングでした。最初にインフラの仕込みをやりながら、ネットワークの売り上げを指数関数的に伸ばしたんです。そう言うと簡単ですが、骨格がすごい勢いで成長するのに内臓や筋肉が追いつかないような状況でした。
植野:会社の仕組みのことですか?
小寺:インフラストラクチャーだけでなく、テクノロジーもそうです。常に言っていたのは「ジャンボジェットを飛ばしながら、落とさないようにエンジンを替えるんだ」と。
植野:空中で換装するぞ、みたいな大手術。ネットワーク効果の激痛ですね。
小寺:その成長痛を味わった数年間は記憶が薄れているほど多忙でしたが、当時のチームとはいまも苦労を分かちあった仲間として密につながっています。
植野大輔
植野:例えば、どんな苦労がありましたか。
小寺:プラットフォームの価値とスケーラビリティの関係を甘く見ていました。「3時間の予定だったメンテナンスが10時間に延びたけど、仕方ない」という具合です。でも「より多くのお客様と常につながり続ける」のがネットワークのビジネス。1時間止まったら数億円の損失になるスケールに成長したとき、これはまずいぞと。
植野:スケールに応じて、インパクトが全然違う。
小寺:止まっている間、世界中でゲームができない、ゲームが買えないという機会損失が生じます。お客様の立場だと、かなり許せないことじゃないか。ユーザー視点でビジネスが自分ごとになったのも、この成長期に起きた変化です。