現場に身を置くことで知覚が刺激され、小説へと繋がっていく

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少し前の話だが、芥川賞候補になったある小説について、筆者は現地に足を運ぶことなく、被災地を舞台にした本作品を書き上げた、と賛嘆されていた。現地に取材していないという事実が、想像力でここまで描けるという作者の実力を示すよりどころとして語られているわけである。

この時、実は僕はやや不思議な心持ちになった。そこで今回は、仕事部屋を離れてストーリーの舞台を見に行くことについて、僕のケースを語ってみたいと思う。

福永武彦と村上春樹の違い


小説家の福永武彦は、書斎にこもったままで、福岡県柳川市をモデルにした町を舞台に「廃市」(1960年)を書いた。だからだろうか、舞台である水の都にはリアルさがなく、幻想的な雰囲気を湛えている。

一方で、村上春樹の「羊をめぐる冒険」で主人公が訪れる北海道は、無国籍な北国とでもいうべき幻想的な印象を与えるが、作者は取材のために現地を訪れたうえで執筆したそうだ。

作品の舞台として想定している場所に行かずに想像力で書くということは僕もしょっちゅうやっているし、反対に、実際に現地を見に出かけることもある。

「ブルーロータス-巡査長 真行寺弘道」という小説は、作品の後半、南インドのチェンナイに舞台が飛ぶが、さまざまな事情で行けなかった。なので、「地球の歩き方」などの旅行本を読み、地域研究のテキストにも目を通した。現地に住んでいる日本人が書いたブログも参考にして、グーグルマップを長時間眺めながら書いた。このやり方はいま取り組んでいる小説でも踏襲している。
 
ただ、僕の場合は、あえて行かないというわけではない。どちらかと言えば、できれば現地に行って目に焼きつけたいと思うタイプだ。ただ、「現地に行って見てもいないくせに知ったかぶりして書くんじゃない」というような意見には、「それはちがう」と反論するだろうし、「行かないでこれだけ書いたのはすごい」という評価には首を傾げたくなる。

書いているのはフィクションなのだから、行って書こうが行かないで書こうが、プロセスを選択した段階で、それは方法となる。作品は、やや乱暴に言うと、プロセスで評価されるのではなく、結果としての書かれたもので評価されるべきだろう。
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文・写真=榎本憲男

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