このような方法は、僕のような学の無い人間には向かないのかもしれないが、いつのまにかこういうスタイルが出来あがってしまった。
小説はフィクションなので、必ずしも事実を忠実にレポートする必要はない。むしろ意図的に盛り込む「嘘」の部分が勝負だ。ただ、フィクションは、現実を写し取る鏡の役割も担っているので、作家は現実についても知る必要がある。
もちろん、資料など読まないで、目の前の社会や世界に向かい合った感触をそのまま文字に起こしていく書き手もいる。このタイプの人はあまり資料を読まない気がする。
知識がないものは徹底的に調べる
たしかに、いくら読んだり聞いたりしたって、世界のすべてを正確に捉えられるわけではないから、文芸にとっては、「私が感じる世界」「私が見える世界」を文字に写し取ることが肝心だ。このような姿勢は、純文学や私小説を書く作家に顕著な気がする。
もっとも、社会派サスペンスなどを書く場合は、政治や社会の状況をある程度的確に把握しなければならない。歴史小説などは、どこまで史実を押さえ、そのうえでそこからどの程度距離を取るか(森鴎外はこれを「歴史そのままと歴史ばなれ」と言った)が非常に重要になってくる(書いたことありませんが)。
また、ハードSFを書くなら先見的な科学的知識が必要だ(というか、こういう知識のある人間がこのジャンルに挑戦するのだろう)。相対性理論や量子学などは必須だろう。量子学では「光は粒であり波である」というのは常識だが、これはもう直感的にはまったくわからない。唖然とするばかりである。
(Getty Images)
こういう知見を取り込みながら、小説として感覚的に腑に落ちるように書くというのは至難の技である。
小説「インフォデミック 巡査長 真行寺弘道」の執筆時には、僕は新型コロナウィルスについて専門家の見解をネットであれこれ読んで(専門家の中でも見解が分かれているので驚いた)、また感染症や免疫について入門書を紐解き、そもそもWHOという組織がどういうものなのかについても、ほとんど知識がなかったから、あれこれ調べた。
現在は、「エアー2.0」という小説で扱った原子力についてもう一度勉強し直している。原子力(核分裂連鎖反応)は、果たして自然の摂理に背くものなのか(自然を捻じ曲げているのか)、それとも農業のように自然と対話しながらそこから恵みを引き出せるものなのかは、現在の僕にとって重大な関心である。