僕の小説執筆は徹底的に資料を読み込むところからスタートする

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僕の場合、社会の実態や科学に加えて、哲学や思想、宗教などの資料と向き合うことがある。哲学との出会いは大学時代だ。とは言っても、僕が通っていた大学に哲学科はなく、一般教養で1年間学んだだけである。

ただ、いま思うと、一般教養の授業としては、担当教授(坂本百大先生)の授業は濃密で、そして、僕はがぜん興味を持った。卒業後も、先生が夜間で教えておられる授業に顔を出したり、セミナーに参加したりした。

もっとも、アカデミックな訓練をみっちり受けたわけではないので、僕の哲学の知識などたいしたことはない。ただ、入門書レベルではあるが、大学卒業してから約40年間、折に触れて読み返し、知識を蓄え続けている。

哲学書のいいところは、わからなくてもしょうがないと思える点だ。最初からスラスラ読めるなんてあり得ない。それでも、何度も立ち戻って読んでいるうちに勘が冴えてきて、かなり難解な文章に出くわしても、なんとなく「ああ、大体こういうことを言っているのだな」と当て推量できるようになる。それが面白い。

理解するため難解な論文を書き写す


さて、資料との格闘で、これまで一番難儀したのは、「ブルーロータス-巡査長 真行寺弘道」を書いた時だった。書察小説であるが、日本を旅行中のインド人が荒川の河川敷で死体となって発見されるところから物語は始まる。

その死因を刑事が追っているうちに、事件の背後にインドのカースト制度が浮かび上がってくるという展開だ。で、当然、このカースト制度をどのように評価するかが、主人公(ならびに作者としての僕)に取り組まなければならないテーマとなってくる。

カースト制度はヒンドゥー教という宗教を支える屋台骨である。カースト制度があってヒンドゥー教があるという風に、カースト制度をヒンドゥー教の前提として捉える学者もいる。

そして、どう考えてもカースト制度は差別的な制度だ。ならば、カースト制度は悪で、その上に立脚しているヒンドゥー教というカルチャーもさっさと破壊しなければならないかと言うと、そこはすこし腰を据えて考えなければならない。

なにせ何千年にもわたってあの巨大な国の秩序となっている制度である。だからといって肯定するというわけにもいかないが、その制度の奥に潜むものを探りたいと僕は思った。

ところが、関連書物を紐解きはじめるとまもなく、これは大変だと慌てはじめた。ヒンドゥー教という宗教そのものが非常に捉えづらいのである。宗教と聞くと、僕らはキリスト教をモデルとしてイメージしがちだが、そういうものからヒンドゥー教はかなり離れている。


ヒンドゥー教の神 シヴァ(Getty Images)

僕は最新作「テロリストにも愛を」ではイスラム教を扱ったので、その時もまたイスラム教の知識をもう一度仕入れ直したのだが、開祖も明確にわかっているし、教義も明瞭だ。この宗教が説く世界観は輪郭がくっきりしているので、もちろん奥は深いけれど、とりあえず入門はしやすい。

しかし、ヒンドゥー教というのは、開祖や教祖がいて、聖典があり、教義があり、それに従って人々が行動しているというようなものではない。インドの大自然と、そこで暮らす人々と神々とが渾然一体となって培ってきた行動様式だといったほうがいいところがある。そして、その根底にあるのがカースト制度だ。
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文=榎本憲男

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