豊田はスポーツカーのような「台数が多く売れないクルマ」をつくる意味を話した。売れなくても、挑戦的なスポーツカーを20年ごとにモデルチェンジをすることで世代間の技術継承になるという。そして、残念そうにこう言うのだ。「この時代を見てください。式年遷宮が途絶えた時期があります」
なぜ途絶えたのか。阿部はこれを「資本の論理」の時代と指摘した。1990年代半ばからリーマンショックで赤字に転落するまでだ。台数と利益が出るクルマが何よりも優先され続けた結果、リーマンショックで不況以上の事態が起きた。「山に植林がなされていなかったので、嵐で木々が倒れたら何も残らずハゲ山になったようなものだ」と阿部は言う。
それが豊田社長就任の13年前だ。その後の体質改善によって、売れないはずのスポーツカーを高価格のスポーツモデル「GRヤリス」で売り出し、欧州を筆頭に世界でヒットさせた。阿部は「企業を永続させる〈ための経営〉の象徴的な事例」と言う。レースで培った蓄積を一般車にもち込んで、稼ぎ頭に変えたのだ。
「短期的に利益にならない伝統をやり続けながら、将来の利益の泉をつくっている。芽を育てることが次世代の市場創造に結実する流れをつくっています。豊田社長の場合、長期的視点の経営というより、永続性を考えた経営になっており、時間軸が長期というレベルを超越しているのです」
では、巨大組織の体質をいかにして変えたのか。阿部はトヨタを3つの時代に分けた。まず、創業期。通常は創業してから数年と考えるのが普通だが、阿部は豊田佐吉が自動織機を発明した明治時代から、豊田喜一郎によるトヨタ自動車の創業を経て、1980年代にアメリカ市場での地位を確立するまでの約80年と考えた。この時代の特徴は、経営思想とビジネスモデルの融合だ。
「自動織機と国産自動車という2つのイノベーションで産業そのものを創出していますが、共通点があります」と阿部は言う。
投資顧問会社スパークス・グループ 阿部修平社長(写真=苅部太郎)
自動織機の発明で画期的だったのは、センサーがない時代に異常検知の仕組みをつくり、糸がなくなったり切れたりすると自動的に機械が停止できるようにしたことだ。これで1人の労働者が1台の機械につきっきりで機械に振り回されることがなくなった。さらに1人で数台の機械を担当できるため、自動織機という市場が爆発的に拡張された。
また、トヨタ自動車の創業時、国産自動車の製造に乗り出そうとしていた会社は複数あり、そのほとんどはバスやトラックの製造を目標にした。アジアへの輸出を含めて商用車の方が利益は確実だからだ。しかし、喜一郎は国民が自動車に乗れることを目標にして大衆乗用車市場を創造した。
これが豊田章一郎の時代になると、アメリカでの「日本車ブランド」の確立に結実する。それまでも小型で低価格の日本車は世界中で販売されていたが、欧州ブランドに負けない高級モデル「レクサス」により新しい日本車像を確立したのである。つまり、創業期は「誰のために」という哲学をもった「商品軸」の時代なのだ。
2番目の時代が1995年、奥田碩が社長就任時に公言した「資本の論理」の時代だ。当時、国内需要の減少、グローバルでの業界再編など、外的環境が激変していくなかでトヨタに限らず、日本の多くの企業が「資本の論理」による再建を図った。
しかし、ここでトヨタは大事なビジネスモデルを見失う。「グローバルマスタープラン」という5年先までの販売・生産台数を決定し、工場の数を増やした。目的は、生産台数世界一である。こうして無意識のうちに「生産者の都合」が優先されたのだ。