ビジネス

2022.08.31 17:00

ロシア発のゲーム会社が直面した戦時中のビジネスの本当の難しさ

イゴーリ・ブフマン(左)と3歳違いの弟のドミトリ(右)


プレイリックスとその創設者である2人のビリオネアはいま、難しい立場に立たされている。彼らだけではない。近年、多くの起業家が割安なIT人材を求めてロシアとウクライナに進出していた。まさにそこで戦争が始まったのだ。
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ロシアにいてもアウトサイダー


3月17日、キーウから約2400km離れたダブリン郊外のビジネスパーク。屋外では、アイルランドの人たちがセント・パトリック・デーを祝っていたが、一角にあるプレイリックスのオフィスにはほとんど誰もいなかった。同社は国際企業を自任しているが、兄弟が13年に安全な(かつ税金が安い)ダブリンに会社の本部を移してからも、社内では主にロシア語が使われている。

プレイリックスは元々ブフマン兄弟が暮らしていた、モスクワから北東に約480km離れたロシアの小さな町ヴォログダから始まった。

父は獣医になる教育を受けたが警備員として働き、母は町で多くの人が働くボールベアリング工場の採用担当マネジャーだった。暮らしは貧しかった、とブフマンは振り返る。
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「食べるものがなくなることはありませんでしたが、月末になると現金が底をつきました」

ヴォログダは辺鄙な町だ。そこに暮らす数少ないユダヤ人家庭で育った2人は、いつもアウトサイダーのように感じていたとブフマンは言う。

「自分がロシア人であるという気はしませんでした。表立った反ユダヤ主義にさらされたことはありませんが、それでも自分がユダヤ人だと公言はできませんでした。両親や祖父母からは気を付けるようにと言われていました」

ブフマンは、大学で応用数学を専攻しているとき、ある教授からシェアウェアのプログラムを書けばお金を稼げると聞き、01年にプログラミングを始めた。彼は、まだ高校生だったドミトリを誘い、ゲームやスクリーン・セイバーの開発を始めた。当時使っていたのは祖父が買ってくれたペンティアム100搭載のコンピュータだ。

「稼げるようになると、最初にコンピュータをもう1台買いました。それで生産性が2倍になったのです」(ブフマン)

2人は04年に正式にプレイリックスを立ち上げ、地元で開発者やデザイナーの採用を始めた。家庭用コンピュータのシンプルなパズル・ゲームの開発は卒業し、当時人気だった「Zynga(ジンガ)」の「ファームビル」に対抗できるようなフェイスブックのソーシャルゲームの開発を始め、09年にはついに無料ゲーム・アプリの開発を手がけるようになった。

「ホームスケイプ」や街づくりの「タウンシップ」など、プレイリックスのゲームは、アプリ調査企業「アップ・アニー」のダウンロード上位リストの常連だ。同社のゲームは無料だが、プレイヤーは新たなレベルの攻略やアップグレードのたびに数ドルを課金する。合計すると月平均5ドルだ。売り上げ27億ドルの大半は米国のプレイヤーからのものだが、同社のゲームは中国でも人気だ。

この課金システムのおかげで、ブフマン兄弟は外部からの投資なしに自力で事業を興すことができた。2人は長い間地元から離れたいと望んでいたが、10年前にロシア警察がやってきて財源について質問されたことで、移転を急がなければと考えるようになったとブフマンは言う。

「移転したのは、この国のシステムへの信頼とともに、安全でいられるという感覚が失われたからです」

彼とドミトリは16年にイスラエルに移住し、20年にはロンドンに移った。ロシア生まれのほかの何人かのビリオネア同様、2人もForbesのビリオネア・ランキングにはロシア人ではなくイスラエル人として載せてほしいと希望した。移住後の年数が長い場合、そうした希望は受け入れている。
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文=イアン・マーティン & ジェーミナ・マケボイ 写真=レボン・ビス 翻訳=フォーブス ジャパン編集部 編集=森 裕子

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