入社から3年後に退社したが、「稲盛くんのファインセラミックスの技術を世に問う」と、自宅を担保に入れてまでして出資金を用立てる者たちにより、京都セラミックは誕生した。稲盛が「京セラをつくっていただいた」という言い方をするのは、このためだ。
京セラ設立後、大手メーカーから電話があり、こう言われたことがある。
「大変失礼な言い方ですが、うちには東大や東京工業大学で窯業を専攻した連中がたくさんいるけれど、彼らができないことを、鹿児島大学しか出ていないあなたが次から次にやれるのはなぜですか。できれば、我々の注文をつくってくれませんか」
下請けとして技術を提供してくれという依頼である。彼は「その気はありません」と断った。
創業3年目の29歳のとき、経営哲学の原点となる事態に直面した。高卒社員11人が定期昇給など将来の待遇保証をしてほしいと要求書を突きだしたのだ。労働運動が激しい時代でもあり、苛烈な団体交渉が3日間続き、それは稲盛の自宅にも及んだ。
「そのとき、心から思ったのは」と稲盛は言う。
「会社をつくっていただき、何とか頑張って立派な会社にして、自分の給料も増やしてもらい、郷里で苦労している両親と5人の弟妹に仕送りができればと思っていたら、社員たちから『我々の生活をどうしてくれる』と言われる。他人である社員のために一生懸命尽くして、大事な自分の弟や妹の面倒もみられないとは、なんと寂しいことよと思いました。しかし、会社経営とはそういうものだとわかったのです。中に住む社員を幸せにすることが第一であると思った瞬間、会社経営の目的を『全従業員の物心両面の幸福を追求する』とメモ帳に書き、翌日、全社員の前で宣言しました」
「経営は理屈通りにいかない」
84年、稲盛は約200億円の私財を投じて「稲盛財団」を設立している。
「たまたま京セラが大成功をして、株も値上がりし、思いもよらぬ資産が入ってきました。資産家になることが目的ではなかったものですから、何とかそれを世のため人のために役立てたいと思ったわけです」と、彼は財団の事業として京都賞を創設する。先端技術部門、基礎科学部門、思想・芸術部門の3つからなり、ノーベル賞を参考にしている。稲盛はノーベル財団を詳しく知ろうと、自らスウェーデンに足を運んだ。同財団の専務理事に学び、「ノーベル賞とは兄弟のような関係」だという。
毎年11月に開催される「京都賞」の授賞式。記念講演、高校生向けフォーラムも行われる。
84年は第二電電(現KDDI)を立ち上げた年でもあり、当時の報道によると、稲盛は自分の持ち株の一部を京セラの全社員に分与している。
このころのことで、もう一つ、特筆すべきことがある。83年、稲盛に経営の教えを請おうと、中小企業の若手経営者らが「盛友塾(現・盛和塾)」を発足させたのだ。この盛和塾に、稲盛の執念が伝わってくるエピソードがある。
稲盛からもっとも激しく怒られた塾生の一人に、「俺のフレンチ」「俺のイタリアン」などのレストラン事業で知られる「俺の株式会社」社長、坂本孝がいる。稲盛より8歳年下で、ブックオフの創業者として有名だ。坂本が盛和塾に入ったのは、95年。ブックオフを創業して4年が経ったころだった。
「当時、経営に迷いが生じていたころで、片っ端から世の中の経営セミナーに顔を出していた」という坂本は、偶然、書店で、89年の稲盛の最初の著書『心を高める、経営を伸ばす』を手にした。何度も熟読するうちに、「稲盛さん本人に会ってみたい」という思いが高まり、夏の日、彼は大津のプリンスホテルで開かれた盛和塾の例会に出かけた。