小説のヤマのひとつは、複数の識者が指摘する通り、エリスとの交流がもとで豊太郎が罷免された直後、母の死の報せを受けた場面だろう。
「我が一身の大事は前に横たはりて、まことに危急存亡の秋(とき)なるに、この行ひありしをあやしみ、またそしる人もあるべけれど、余がエリスを愛する情は、初めて相見しときよりあさくはあらぬに」
主に峰子の教育から生じた鷗外の受動的、器械的性格は、エリーゼが海を渡ってきても変わらず、直後に出た結婚話が家の方針ならば、従容として受ける点でも変わらない。
しかし、留学前と後で変わったとしたら、そういう自分の弱さに気づいた点だろう。
大いなる野望を持って立ったドイツの地で待ち受けたエリーゼ(エリス)との出会いは、国家対個人の葛藤ではなく、国家の圧力から逃げ込む方便としての交情だったと鷗外(豊太郎)自身に知らしめ、弱さを自省させたとはいえまいか。
森家の家族 明治30年4月撮影(財)日本近代文学館所蔵
鷗外は『舞姫』執筆10か月後、長男於菟が生まれた翌月に妻の持ち家を出て、借家住まいに入った。それはある意味、家同士の縁談に尽力した母峰子と敵対しかねない危険をはらんでいたはずだが、息子に嫁が合わなかったのは自分の責任と考えた母と正面衝突なく持ち越している。
鷗外と峰子は、たしかに強力な精神的紐帯(ちゅうたい)でつながってはいたが、それはほとんど、生後間もないヒナ鳥が最初に目前の動くモノを親と認識する「刷り込み」に近いものだったと考えられる。それが現代の「マザコン」概念とどう違うのか。今後の検討課題としたい。
要するに、鷗外は、心の内側を『舞姫』により外在化して、みずからの弱さに打ち克とうとした、いやそうせざるを得ないほど、追い込まれていたというのが、私の仮説である。ただし、それは“負け戦”ではなく、軍医と作家の「二刀流」として新たな活路を見出す人生の一大転機であったといえるのではないか。
おわりに
鷗外は『舞姫』に先立っていくつか翻訳の小説と詩集を出している。訳詩集『於面影(おもかげ)』所収の「別離」漢文書き下し文には「往事一夢に帰し 茫々(ぼうぼう)として追ふべからず」の語句がリフレインされる(山崎一頴『森鷗外 国家と作家の狭間で』新日本出版社)。これは今後扱う予定の、後年鷗外が到達した境地「諦念」に通ずる萌芽といえる。その前に、鷗外の軍医・作家生活にもう一波乱が生じた。次の妻志げとの関係である。次号を待たれよ。
連載:記者のち精神科医が照らす「心/身」の境界
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