エリーゼ来日と並行しての結婚話に、当の林太郎は何ら主張しなかった。
これを評して、山崎國紀氏は「最も大切で、権威的な母の願いをことわり切れなかったのか」(『評伝森鷗外』大修館書店)と疑問を呈している。
登志子との間にできた長男於菟(おと)は『父親としての森鷗外』(ちくま文庫)で「父自身は元来家の事すべて両親、ことに母親まかせであり別に異議なくこれに従ったまでであろう」とやや冷ややかな調子で書き残している。
いったいにわれわれ後世の人間は、森鷗外というと常に威厳を保ち、理非弁別を過たない偉人というイメージを持ちがちである。しかし、少し考えれば、それは「虚構」であることが分かる。
結局、エリーゼを帰国させ、親の決めた結婚相手の登志子と一緒になったものの、2年経たずに離縁した。一説には家柄の違いのほか、登志子の容貌の問題とか、一緒についてきた乳母たち周辺の存在とか、登志子の病気とかがある。(結核。当時は死の病とされ、隠すことが通常だった。鷗外自身も最期、結核で亡くなった)
登志子と別れた後、林太郎は母から「隠し妻」をあてがわれている。むろん、妾制度が公認されていた明治の性事情をいまの倫理観から断ずるのは意味のないことであるが、少なくとも森家の母子関係は、常人にはにわかには理解しがたいものだろう。
鷗外の評伝をまとめた山崎氏は峰子の書き残した文章も渉猟し、『増補版森鷗外・母の日記』(三一書房)を編んでいる。同書末尾に収録された「増補 鷗外にかかわる母性」には『舞姫』の執筆動機を考えるのに有益な論考が展開されているので、紹介したい。
ポイントは2点。
1. 峰子に育てられた鷗外がどんな「原性格」を形成したか
2. 峰子の持つ文人的嗜好と鷗外の資質の関係
1. では、精神分析医フロイトの理論を引き、鷗外には父への反発の残滓(ざんし)が感じられないとする。「家の中心は長男」と考える峰子の執着的性格からくる鷗外への「かまいすぎ」から、鷗外の「依存的、受動的、臆病」な性格が際立ったとする。
2. では、精神科医クレッチマーの「天才は女性を通じて男性に現れる」という仮説を鷗外に当てはめ、その研究的資質は祖父の漢学と父の蘭医学の系譜、文学的感受性は母性の系譜から来ているとする。
実際、峰子は幼少時、人形遊びよりも太平記などの絵本を読むことを好んだ。長じての趣味は読書と観劇で、『平家物語』『徒然草』などが座右にあり、『和漢朗詠集』なども繰り返し見ていたと孫の於菟が書き残している。鷗外は翻訳の代表作、アンデルセン『即興詩人』を高齢の母が読めるよう、通常より大きい活字体で編集している。
鷗外の「絶対的存在」だった峰子の文章をまとめた『増補版森鷗外・母の日記』山崎國紀編 三一書房
さあ、そこで『舞姫』である。
精神医学では心のあり様、とくに無意識の領域に関して、いろいろな理屈で説明する。例えば、
抑圧:現実と相いれない事柄を無理に意識の水面下に押し込める。
昇華:抑圧された衝動を文化的・社会的に受け入れやすいものに変えて発散する。
さて、『舞姫』発表時の鷗外の心のあり様はどうだったのか?